見出し画像

6月21日(月) 僕と西行の老い

 梅雨の気配が遠くなった。空は雲を浮かべているけどわりと青い。今年の梅雨は降る日と晴れる日のけじめがはっきりしているみたいだ。

 昨日、父の日参観で幼稚園に行った。次男は僕の似顔絵を用意してくれていた。息子の頭に残る僕が笑顔であることにホッとした。

 こめかみが赤い。赤いというか、赤の何かがほとばしっている。なんだか無口な東洋系の凄腕スナイパーに狙撃されたみたいだ。
 幼稚園の先生が「似顔絵のために、パパのお顔をしっかりと見ておきましょうって宿題を出したんです」と嬉しそうに言っていた。そういえば数日前、僕のこめかみの赤いほくろ(「老人性血管腫」というらしい。名称にへこむ)を次男がじろじろ見て「パパのここから血が出てるねえ」と言っていた。
 ありがとう先生、おかげで僕は、次のコマで頭から血を吹いて死ぬ政府の要人みたいになりました。

こめかみに老いを描きし子よいつか君と僕とでそれを語ろう

☆ ☆ ☆

 老いの歌は雑部にある。『新古今和歌集』雑歌上をめくっていると、西行法師のこんな歌があった。

ふけにける我が身の影を思ふまにはるかに月のかたぶきにける

 老いた自分の姿についてなんだかんだ考えているうちに月が傾いた、らしい。花の色が褪せていった小町の歌に比べると、西行の月はなんだか渋くて、ああ中世和歌だなあ、という気がする。
 「我が身」ではなくて「我が身の影」というのはなぜだろう。古い歌には

朝影にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
                  (万葉集・巻十一)

とか

夕月夜あかとき闇の朝影に吾が身はなりぬ汝を思ひかねて
                  (万葉集・巻十一)

とある。『万葉集』だ。この「朝影」は「影のように痩せ細っていく私」のことだ。そしてその発想は

恋すればわが身は影となりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ
              (古今集・恋一・読み人しらず)

と『古今集』に引き継がれた。

 西行の歌の「影」は「月影」のように姿そのものをさすから意味に違いがある。でも西行の、姿を意味する「影」の中にも、『万葉集』以来の、影のように痩せ細った自身の姿が混じり込んでいるはずだ。恋歌を述懐に転用した方法とみておこう。

(現代語訳)
老いてしまって
影にように痩せ細った私の姿を
ぼんやりと思い浮かべているうちに
夜が更け、遙か西の彼方に
月は傾いてしまった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?