1月23日 熱い応援と気怠い重之
入試当日。僕は監督。
例年なら塾関係者や保護者が多く集い、賑やかに心の準備を整える。教室入場の際には応援の声がかけられる。
本年は大人の人数が少ない。
だけど、熱気が薄いわけじゃない。ここまで準備してきた受験生の、そして寄り添い導いてきた大人達の本気が、静寂の中に満ちている。
列に並ぶ受験生の一人ににゅっと拳が突き出された。受験生は、静かに頷いて建物の中に消えていく。
声張れず肩に手置けず背叩けず全てを込めて拳を掲ぐ
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今日は『新古今和歌集』の春の部を読む。こないだも読んだ、その続き。
梅が枝に物憂きほどに散る雪を花ともいはじ春の名立てに
(『新古今和歌集』二八 源重之)
春の梅は二度詠まれる。花咲く前と、匂い立つ花と。
花が咲く前の梅は雪とともに詠むのがお作法。例えば
心ざし深くそめてし折りければ消えあへぬ雪の花と見ゆらむ
(『古今和歌集』七 読人知らず)
思慕するように、梅の花に
気持ちを深く、深くこめまして
枝を折り取りましたので
枝に消えきらず残る雪が
姿を花と、見せてくれるのでしょう
こんなのが定番の歌。
雪を花に見る幻視は結果。幻視を引き起こす花への、あるいは春への想いの強さが歌になる。
『後撰和歌集』でも春へのウキウキが雪を花にする。
梅が枝に降り置ける雪を春近み目のうちつけに花かとぞ見る
(四九七 読人知らず)
梅の枝に
降り積もる雪を
張るが近いので
目をサッと向けた瞬間に
花かと思ってしまう
こんな感じ。
『古今集』や『後撰集』と比べると、重之歌の個性が分かる。
うんざりするほどに降る雪。
雪から花への見立ての拒否。
この雪はきっと、ふわりふわりと降る雪では無いのだろう。春を迎えた時期だから、重たそうな雪なのかも知れない。あんまりどっしり降るものだから、花との近似を見失ってしまった。そんなのが春の花だなんて言ったら、みんながっかりしてしまう。
梅の枝に
鬱陶しいほど
散りかかる雪を
花のようだなんて言うまいよ
春の悪評が立ってしまうから
アンニュイな気分を詩情に引き上げたのは、どうやら白居易らしい。政治批判の白居易。ぼやきの白居易。
政治を語れる人のぼやきって、なんか格調高く聞こえるんだよね。ツイッターとかでも。
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