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《和歌日記》2021年1月6日

 ようやく初詣に行きました。

 例年参拝している、市内で一番大きな神社を今年は避けました。かわりに向かったのは、郊外の、小さな山の上にある神社です。

 お参りに来れば、祀られている神も気になります。境内に掲げられている縁起を確認し、さらにネットで調べました。

 どうやら鎌倉期の英雄が、神として祀られているようです。「市内で一番おおきな神社」の御祭神も、同様に人神です。そして南北朝時代、「小さな山の上にある神社」の御祭神は、「市内で一番おおきな神社」の御祭神のご先祖さまと、敵味方の間柄だったようでした。

 何だか少し、申し訳なくなりました。でも日本の神様には、こういう節操のなさも受け入れる度量を期待したい、と言ったらワガママになるのでしょうか。


春日野の おどろの道の むもれ水 すゑだに神の しるしあらはせ 
       (『新古今和歌集』神祇歌 1898 皇太后宮大夫俊成)
春日神を 祀る誉れを 担いつつ せめて子孫に その恩寵を

 神に実在感があったと思しき時代に、人々はどのように神と向き合っていたのでしょうか。そんなことを考えながら、今夜は『新古今和歌集』の「神祇歌」をながめていました。

 上に示した歌は藤原俊成のもの。『千載和歌集』の撰者も務めた大歌人です。
 春日と言えば藤原氏。それは平安時代の主役を輩出した一族です。始まりが天皇の一族とは別でありながら、苦難を乗り越え、数百年間に渡り日本の屋台骨であり続けた栄光の一族。
 俊成は自分をその一族の末端としつつも、「むもれ水」=草木に覆われ埋められてしまった水、に喩えます。そして藤原氏でありながらうだつの上がらない自分を表現しつつ、自分ではなく、子孫への神の恩寵を期待する。

 過去と未来を繋ぐ自分を用意して神と向き合いながら、決して主役感を出さない。その抑制の効いた歌い方が素敵です。

 自分の節操のなさを少し反省しました。

 


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