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道はただ延々続く 話しながら歌いながら 伊勢物語20

1,気分はイージューライダー

  今段の業平様は、人生を楽しんでいる系貴公子です。官職を与えられていると明記されている上での、自主休職。からの大和散策。年休か何かですかね。
 やってることは田舎の愛人宅ご訪問ですので、きっと上司のおでこの血管はぴくぴくですね。

 むかし、男、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。さてほどへて、宮仕へする人なりければ、かへり来る道に、三月ばかりに、かへでのもみぢのいとおもしろきを折りて、女のもとに、道よりいひやる。
   君がため手折れる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ
とてやりたりければ、返りごとは京に着きてなむもて来たりける。
   いつのまにうつろふ色のつきぬらむ君が里には春なかるらし

 自分はのんきに行楽気分のくせに、思いついたら従者をパシらせる。都の中ならまだしも、奈良から京へ向かう途中に、来た道の奈良へ、です。従者さんの「まじかよ」顔が浮かびます。

 訳を示しましょう。私訳です。

 昔、あの例の男は、大和に住んでいた女を見かけて、求婚し情を交わした。そうしてしばらくして、宮中に仕える人であったので、京に帰ってこようという道すがらのことであった。季節は三月の春、楓の若葉が赤く染まっている、大変に趣深い一葉を折って、女のところに道から送った。
   君のために僕が手で折ったこの枝は、春でありながら、こんな風に秋
   のように紅葉していることだよ、僕の思いに染まってね
と言って送ったところ、女からの返事は京に着いてから持ってきたのだった。
   あなたの心はいつの間に色移りしてしまったのでしょうか。あなたの
   お住まいは、秋ばかりで春がないのでしょうね

 割とシンプルで、贈答歌として典型的なお話、と思われるのですが、それでもみんな大好き伊勢物語ですので、解釈の分かれ目が存在します。

 今回の分かれ目は、男の和歌に集中しているようです。ポイントは「楓はなぜ赤に染まったか」。

 僕は多くの現代注釈が採用している、「女性に向けた業平の情熱的な恋情」を原因とする説を採用しました。以下にその他の説を示します。

①女性の為に手折った楓が、女性の心変わりを象徴して変色した。
②シンプルに、女性への祝福としての、赤への変色。
③女性と別れねばならない男の血の涙に染まった。

あたりが主な説です。

 しっくりくる解釈はありましたか?

2、大和から京へ帰ってみよう

 大和は奈良、京は京。三月頃、というのは今で言えば三月下旬から五月上旬くらい。とはいえ気候変動も著しいし、単純に今の四月前後の感覚だけでとらえられるものでも無いとは思うのだけれど。
 それにしてもこの男、官職を持つ身でありながら、何とものんびり自由気ままに生きております。春の草木を楽しみながら歩き、見つけた楓と手紙を女性のところまで、従者に届けさせたのでしょう。仕事しろや。
 女性からの返事は、京についてからになります。そりゃそうです、従者も人間ですので、女性の所まで行ってきて、返事をもらい、男に追いつくようにダッシュする、というほど本気のお使いをしたいとも思えないでしょう、こんな思いつきに付き合わされて。主人と従者、きっと似たもの同士で、のんびり京に帰ってきたんじゃないですか。知らんけど。

 というわけで、Lessonです。今回のLessonは地図。男の道中と楓が生えていそう、かつ従者が女性のところまでの往復をすると道中では追いつけなさそうな所、を探してみましょう。

Lesson22 グーグルマップ、グーグルアースなどで「大和」から「京」に至る道筋を確認し、男が楓を折ったと思しき場所を推測しなさい。

 グーグルマップで、例えば「平城京羅城門跡公園」から「土御門内裏」までのルートを確認すると、徒歩で約九時間半、と算出されます。50km近いですので、一日で歩き通すのはなかなか辛いものがありますが、健脚なら不可能ではありません。でも一泊二日程度をかけ、道中楽しみながらゆったり進むのが、物語の雰囲気にあっているでしょうか。

 道はほぼ北上。序盤は市街地を通り抜け、やがて木津川沿いに出ます。どんどん北上し、宇治を右手に眺めながら伏見へ。この辺りまで来ますと、京都市街に入ってますね。

 さて、ルートを確認すると、ほぼ平地を歩いていることが察せられると思います。ではどこで楓を折ったのか。

 もちろん確定はできませんが、従者が追いつけないほどの距離です。かつ女の歌が地理的に間違っていないとすれば、この楓は「君が里」、つまり大和国内ではなく山城国、京周辺のものと考えた方が合理的です。であればあまり内裏、男の家に近すぎない辺りで、現在の宇治市くらいが良い場所になるのではないでしょうか。

 繰り返しますが、正解はありません。道中をイメージしながら、素敵な楓が生えていそうな土地を探してみてください。

3、平安貴族の仕事とバカンス

 東下りといい、業平様は気ままに平安男子をやっておりますが、実際の平安貴族はこんなに暇、というか長期休暇を取り放題だったのでしょうか。

 平安貴族達の日常は暇か忙しいのか、と問いを設定すれば、「それなりに忙しい」というのが答えとなりそうです。早朝から務めに出なければならないし、公卿会議である陣定はほぼ毎日のようにあったようです。公卿が毎日出仕しているのに、その下の身分のものが悠々自適というわけにはいかない、と考えてしまうのは現代的価値観に毒されすぎでしょうか。
 そして宿直としての仕事も割り振られ、一日の労働が長時間に及ぶこともありました。

 古瀬奈津子氏の『摂関政治』(岩波新書 2011)によれば、

 殿上人の日給は、毎月、人ごとに上日(出勤日数)と上夜(宿直数)がまとめられ、毎月三日、蔵人から天皇へ奏上された。これを月奏という。上日二〇日、上夜一〇日が基準で、それ以下の場合には勘責を加えられた。この上日数にもとづいて、六月と一二月には上・中・下の勤務評定がされ、絹などが支給された。さながらボーナスである。

とあります。三〇日中の二〇日が仕事だとしたら、週休2日です。荘園経営の仕事もあります。もちろん有力貴族であればさらに、人事や財務で頭を悩ますことも多かったでしょう。


 では業平様はどうだったのでしょうか。
 これが難しい。公卿ではありません。そして20代は殿上人となれるだけの官位は与えられたものの、官職は与えられない期間も長かったようです。その辺りの、なんというか「隙」があるところがまた、平安王朝ファンタジーの主役になり得る存在として愛されてきたのかもしれません。
 仕事を与えられているのにさぼってばかりで「勘責を加えられ」ている業平様、というのもちょっと興味がありますけどね。

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