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5月19日 家隆の空

 雨が降る。雨は物憂いが、ほととぎすを呼んでもくれるらしい。

いかにせん来ぬ夜あまたのほととぎす待たじと思へば村雨の空
               (新古今集・夏歌・藤原家隆)

 良い歌だなあ。

 分かりやすい。
 下の句に向けて緩急のリズムがよい。
 なんか深そう。

 分かりやすいというのも背景知識があればこそ。五句で「村雨の空」というが、その背景にはどうやら

心をぞ尽くし果てつるほととぎすほのめく宵の村雨の空
              (千載集・夏・藤原長方)
ほととぎすの声を待って待ってず~と待った。待ちくたびれた。そしてようやく、かの鳥がほのかに鳴く。鳴いたのは日暮れ頃、村雨が降る空に。

などといった歌がある。
 家隆はこうした歌の発想を下敷きに、「ほととぎすの鳴きそうな雰囲気」として「村雨の空」を用意した。

 その「村雨の空」は、ほととぎすを「待たじ」と思ったその時にやってくる。リズム感・スピード感を担っているのが「思へば」だ。例えば「待たじと思ひて見れば村雨」などワンアクションを挟む表現もありえた。しかし「思へば村雨の空」。思うことと環境が変化することとが一続きだ。まるで心に直接景色が応えるようだ。上句のゆったり感からすると、ぐっとスピード感が出ている。

 待つまい、と思ったその時にほととぎすの気配。引くか、待つか?その迷いに重み・深みをもたらすのが「来ぬ夜あまた」と「待たじ」だ。こちら本歌がある。『拾遺集』に載る歌聖・柿本人麻呂の恋の歌だ。

頼めつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる
                       (拾遺集・恋三)
頼みにさせておきながら、幾夜も幾夜も来てくれない。もう待ってなんかやるもんかと、思う。待とうかなと思う心より、強く。

 『拾遺集』では恋をしながらも逢えない辛さを歌う恋三の末尾に配置されている。逢えず、辛く、嘆いて、でも期待して、その最後に到達するのが「待たじ」だ。もう待たない。人麻呂により「待たじ」の優位を確定させて、『拾遺集』恋三は終わる。
 重みのある「待たじ」だ。家隆はその「待たじ」を取り込んだ。取り込んでおきながら「村雨の空」と天秤にかけた。初句は「いかにせむ」だから、軍配はあげられていない。人麻呂の「待たじ」、『拾遺集』の「待たじ」に向こうを張る「村雨の空」で、結果は不分明のまま終わる。

 スピード感を持つ。結果は不分明。しかしそれは物足りなさではなく。「待たじ」と「村雨の空」の重みにより余韻として味わわれる。
 この歌はそういう歌だったのだろう。

どうしようか
いくら待っても来ない夜ばかり
恋い焦がれているよ、ほととぎす
だけどもういい。もう、待たない。そんな風に思った今、
ほととぎすを呼ぶように、村雨の空。ひょっとすると・・・

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