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4月20日 聞いてきた息子と、弁乳母のホトトギス

 息子は今日まで出席停止だ。いよいよ明日は登校が許される。

 あんまり出かけないものだから、とうとう「今日一日あったこと」を息子が僕に聞いてきた。どんな勉強をしたか、他のみんなと何をしたか。
 いちいち答えた。「こくごのおべんきょうをしたよ」「みんなでテストのまるつけをしたんだよ」。
 パッとしないな、と思った。息子に語れるような一日を送ろうと思った。

100文字の日記ノートの欄外を字が取り囲む明日がいいね

 午後7時に届けられた宿題を息子が終わらせたあと、家族5人で「かごめかごめ」をした。めちゃくちゃ盛り上がった。

☆ ☆ ☆

 今日は、『新古今和歌集』夏歌でやたらと詠まれているほととぎすの歌を読んでみよう。

ほととぎすみ山出づなる初声をいづれの宿の誰か聞くらむ
                        (192 弁乳母)

 ほととぎすの歌も季節の推移に従って配列されている。直前に「声待つほどは」と歌う歌があり、直後は「聞けどもあかず」と歌う。弁乳母の歌に「賀茂に籠りたりける暁、郭公の鳴きければ」と詞書があるから、この歌では声が聞こえている。声を待つ→聞こえた→満足できずに二声目を待つ、という並びだ。

 初声が聞こえたら歓喜を爆発させるのがお作法だ。だから「いづれの宿の誰か聞くらむ」は爆発した歓喜の表出であるはず。
 どこが、だろう。

 そもそもホトトギスの初声はかすかなものだ。聞いたか聞いていないかも定かでは無い。自分の耳には入ったような気がする。でも不安だ。
 だから他の誰かが聞いていてほしいのだ。「いづれの宿の誰か」はきっと、存在していてほしい人。同じ心の友もがな。「今の聞いた?聞いた?鳴いたよね?」。弁乳母はきっと、はしゃぎあえる相手を求めている。
 なんだかちょっと、かわいい。

ほととぎすは
賀茂のお山から出てきたみたい
あのほのかな初声を
私の他にはどこのおうちの
どなたが聞いてくださったでしょう
 

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