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7月4日(日)僕のかき氷と崇徳院の秋

 街角でかき氷を買って食べた。地元の名物だが、昨年は食べられなかった。
 柔らかな氷に梅のシロップがたっぷりとかかる。シロップは思ったより甘みが抑えられており、刺激になら無い程度の酸味が涼やかさを増す。
 大きめのカップにあふれるほど盛られた氷だが、泡雪のように軽く、口をつければ冷えた空気を吸うほどの抵抗感しかないまま消えていく。旨い。

アステカの都で王が食べてたら多分神話になるこの氷

  『新古今集』秋歌上の二首目は崇徳院の歌だ。

いつしかと荻の葉むけの片寄りにそそや秋とぞ風も聞こゆる

 一首前の歌は「くずかづら」を吹き裏返す秋風を歌い、秋の到来を視覚で告げてみせた。ではこの歌はどうか。
 まずこの歌も、「荻の葉むけ」で視覚により秋の到来を見いだしている。更に「片寄りに」と言う。ひとつふたつがチラリと揺れたイメージではない。ススキに似た荻の穂が風に吹かれ、一斉に傾いていく。その様は

秋の田の穂むけのよする片寄りに君に寄りななこちたかりとも
               (『万葉集』第二巻 但馬皇女)

に歌われた風景と近い。風に吹かれて一斉に倒れ伏す荻の姿は、秋の雰囲気をたたえていたのだろう。
 加えてもう一つ、「そそや秋」と風が鳴ることが注目される。どうやら作中の人は、ダイナミックな視覚に加え、聴覚によっても秋を見いだしている。そよそよと吹く風は、「それよそれ、秋が来たぞ」と告げているものでもあるのだ。

 「風の音にぞ驚かれぬる」などといったどこか控えめな秋の到来などここでは歌われていない。視覚と聴覚とでこれでもかと秋の到来を告げてくる、これが新古今の秋である。この圧倒的変容には時代と個人を結びつけたくもなるが、それは勇み足なのだろう、きっと。

《現代語訳》
早い、もうか
荻の葉が揺れる、倒れ伏していく
ただただ、一方に向かって
そよそよと吹く風までも、それそれもう秋だと
告げているようで




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