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をだまきがくるくる 伊勢物語32

1,訳と解釈

 『伊勢物語』第三十二段。「しづのをだまき」の歌が有名な話です。

 昔、物いひける女に、年ごろありて、
   いにしへのしづのをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな
といへりけれど、何とも思はずやありけむ。

 まずは注釈めいた説明から。

 「物いひける」は曖昧な表現です。語り合う関係だったということなのか、それとも男女の情を交わす仲だったということを言いたいのか。
 『全評釈』ではどちらの可能性も検討しつつ、歌の内容からして後者であろうと推測しています。他の注釈書もおおむねそのようです。

 「年ごろありて」は、その男女の仲であった頃から数年経って、の意味。

 歌、及び「何とも思はずやありけむ」の解釈については、『評解』の言葉が美しい。紹介してみます。

 かつて関係のあった女に、相手の男が、交渉のないまま長の歳月を経た後、あらためて往時を懐かしんで「いにしへの」の歌を詠み送ったという話である。歌の序詞として描き出されているのは、古代の倭文織りの、乱れ模様を織り出した素朴な美しさの意匠。過ぎ去った日の、今にしてみると純真な恋の甘美さが、その意匠に託されていよう。しかし、古代が憧れの対象でしかないように、この恋の昔日ももはや取り戻すことはできない。「いにしへ」「昔」を重ねた言葉のひびきあいも、重々しい。これに対する女の返歌こそないものの、男の追憶の哀しみは彼女の心にも共感をこみあげさせて当然であろう。語り手の言う「何とも思はずやありけむ」は、読者の注意を喚起してやまない評言といってよい。(途中、文字を太くしたのは私です。)

 『評解』は「いにしへの」にも「しづのおだまき」にも、追憶を誘う仕掛けがあったという読みをしています。
 その追憶される「いにしへ」と、歌を歌う作中主体との距離感の言語化が、秀逸だと思うんです。

 「しかし、古代が憧れの対象でしかないように、この恋の昔日ももはや取り戻すことはできない」。

 「しづのをだまき」が郷愁や憧憬に似た感覚を胸の内に生じさせる読みです。詠み手である男自身も、取り戻すことはできないことが分かって詠んでいるんですね。
 好きだなあ、この解釈。

 以上をふまえつつ、川上弘美の訳をみてみましょう。

 男がいた。
 かつて情をかわした女に、何年かたってのちに、歌を詠んでおくった。

      いにしえの
      倭女織りの糸巻きが
      くりかえしくりかえし糸を巻くように
      いにしえの
      わたくしたちの愛を
      ふたたびくりかえすことは
      もうできないのだろうか
 
 男のこの歌を、女はどう思ったのだろう。
 それは女自身にしかわからぬことだ。

2、何とも思はずやありけむ

 『評釈』の鈴木日出男は、末尾の「何とも思はずやありけむ」について、「読者の注意を喚起してやまない評言」と語ります。川上弘美は「それは女自身にしかわからぬことだ」と補足します。それぞれの「読み」が反映されています。

 なぜこう、読者を一歩踏み込んで解釈させるのか。それは作中の「女」が、沈黙しているからです。歌を詠みかけられた、しかし返さない。
 前段では女から引歌(的な文言)をぶつけられた男が、見事に返した姿を描いています。それに対して今段では、男が情感豊かに昔を振り返って見せた歌を送り、女は沈黙を保つ。

 私たちも、ここで一歩踏みとどまって、考えてみましょう。
 果たして今段で、歌を送られた女は、歌を返すべきだったのでしょうか?歌を詠んでいないことで、「何とも思はずやありけむ」と、まるで怒られているような、訝しがられるような扱いを受けている女は、本当に空気を読まない不思議ちゃんだったのでしょうか?それとも何か理由があるのか、ありうるのか。そこにどのような思いがあり得たのか。

 結局、本文に戻ります。女は一体、何を思って歌を返さなかったのでしょうか。

 それではLessonです。今回は三択でどうぞ。

Lesson1 女は男の歌に対し、何とも思わなかったのでしょうか。
① 特に男に心を動かされることはないと思う。
② 何かしら、恋愛感情に似た感情を生じさせたと思う。
③ 分からない。

 具体的内容は抜きにして、直観的に選んでみてください。
 なお、物語の解釈上、共有しておきたいポイントは以下の3つです。

・かつての恋人同士。
・「年ごろ」、すなわち数年間は恐らく交流途絶(少なくとも男女関係は)。
・「しづのをだまき→もがな」。「しづのをだまき」はあくまで「いにしへ」のもの。憧憬はあれども、現代への復活は実現不可能。それは双方、承知の上。

 何をバカなことを言っているのか、と一顧だにしないか。グッときてしまうのか。さっぱり感情移入できないか。
 どれでも結構です。



 では、次の問いです。

Lesson2 物語現在で、女はどのような生活を送っていると思いますか。Lesson1で選んだ選択肢との整合性も考え、以下から選びなさい。
①夫を得て、生活は安定している。
②夫を得ているが、後見役が不在で、生活が不安定になりかけている。
③夫はいないが、両親が健在で生活は安定している。

④夫はおらず、後見役も不在で、途方に暮れている。
⑤夫はおらず、女房として出仕している。

 誰かの正妻でありながら出仕している、というのがあり得たのかどうか判断しきれません。何となく無さそうだと思ったので、今回はその選択肢を外しました。

 では最後に、言語化をしてみましょう。

Lesson3 Lesson1,2で選んだ選択肢をもとに、「何とも思はずやありけむ」に対する答えを想像し、言語化してください。

 いかがでしょうか。
 Lesson1で①なら、Lesson②では①か③になりそうな気もしますが、見くびりすぎでしょうか。Lesson1で②なら、Lesson2はどれでもつじつまが合いそうな気がします。

 ここではLesson1で②、Lesson2で③を選んだものとして、言語化してみます。

 女は男の歌に、心を動かされている。
 女には現在、決まった夫はいない。だが両親は健在で、時折縁談めいたものも飛び込んでくる。これと決める程の熱さを感じることは無いが、いずれはその中から誰かを選ぶことになるだろう。
 そんな時、女のもとに、数年ぶりにかつての恋人から手紙が届けられた。かつての何度も愛を確かめ合った時の情熱を思い起こさせる、熱量のある手紙だ。
 だが…。
 女はふと思う。「しづのをだまき」は果たして、現在に復活する術はあるのか。答えは否である。むしろ、古代の芸術として憧憬の彼方にあるからこそ美しいのだ。
 男には、かつての恋愛を復活させる気など無いのだろう。と言うよりもう、お互いに年を重ね、情熱を燃えあがらせるような関係に戻ることなど不可能であることを受け入れている。むしろその、手の届かない過去への憧憬を共有したくて、手紙を送ってきたのではなかったか。

 女は、心の中に生まれる感情に気づく。
 これは怒りだ。手の届かない過去だと知りながら、それへの思いだけを再び燃えあがらすような、自分勝手な男に対する怒りの念だ。
 女はしばらく目を閉じ、自分の心と向き合う。不躾な、忌まわしい、それでいて思いを向けることを止められないあの男を思う。
 そして、その返答として、無言を貫いたのである。

 書き始めたら長くなってしまいました。 

 選択問題で「足場」を整え、具体的にイメージする方法を探ってみました。古典の現代小説化への練習としても使えるかも知れません。いかがでしょうか。


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