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4月19日 妻の切れ味と好忠の夏

 コロナ禍の中、外出できない日が続く。妻は24時間甘え続ける子どもたちにうんざり気味だ。朝から叫ばれる「ママが良い!」への返答にも毒が混ざる。

食パンに包丁を引く「ママが良い!」 「ママは良いです」おいその切れ味

☆ ☆ ☆

 桜が過ぎると夏になる。夏は、春や秋と比べると歌が少ない。気持ちは分かる。
 僕の心がまだ春の花の美しさに引き留められているせいだろうか、『新古今集』の次の歌が気になった。

花散りし庭の木の葉も茂りあひて天照る月の影ぞまれなる
             (『新古今集』夏歌・曾禰好忠)

 さっと読む。読んで分かりやすい気もする。
 だがこの歌は、何を詠んでいるのだろう。

 直接歌の対象になっているのは茂り合う木の葉だ。その茂る葉は、挟まれている。散った花と、天を照らす月と。それぞれ春と秋のシンボルだ。

 例えば『徒然草』の第137段と比べてみよう。

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情け深し。

 曾禰好忠は、春の花・秋の月に出会えない夏に、その花が散ってしまい、月は見えない事実を歌う。しかしそれは、兼好法師のような花月を恋い慕う気持ちなのか。そうであれば、葉を恨む風があるべきだろう。しかしそんな感情を直接表出しているわけではない。

 花などを恋い慕うといえば、『新古今集』選者・藤原定家の次の歌も思い出されよう。

見渡せば花も紅葉も無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(新古今集 秋歌上)

 閑寂とした秋の風景に、花と紅葉の幻想が浮き上がる。その幻想に陶然としつつ、先の曾禰好忠の歌に目を戻す。やはり何か違う。

 定家の歌は、切れ味が良い。その切れ味を生み出しているものの一つは、気づきの「けり」だ。見渡した今まさに喪失に気がついた、その瞬間の時を止めて、定家は切り出していく。その切れ味が、喪失の痛みを際立たせる。
 好忠はどうか。
 好忠の時間は流れている。
 花が散った春。散った後の庭の木が所在なげに立つ初夏。そんな木にも葉が繁茂する盛夏。そしてまだやって来ない、空の見晴らしが良くなる秋。
 季節を順番に歌うことで、花月の喪失より、花や月が無い「夏」そのものの位置づけを歌っているように思える。そしてなにより、好忠の景には、夏のものがきちんとある。茂る葉が。

 好忠は夏の葉を否定はしていない。花は無い、月も見えない。そのことを歌うことで、好忠は茂る葉に、花や月すらを塗りつぶすエネルギーを見いだしたのではないだろうか。

あんなにも美しかった花が散った
あの時は切なそうな、寂しそうな、弱々しく頼りなかった庭の木の葉たちも
今は盛りを迎えてもっしゃもっしゃと茂っていて
秋には天空を遙かに照らす月の
光も今は、ほとんど届かない

 

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