見出し画像

最果タヒ『百人一首という感情』

 最果タヒさんの『百人一首という感情』(リトル・モア 2018)を読みました。

 最果タヒは詩人です。最初はネットでその名を良く見かけました。
 ネット上ではある時期「タヒ」が死を示すスラングとしてはやったんですけど、知ってますか?「死」から上部の「一」を外すと「タヒ」になるからなんですけど。
 最果タヒさんの名前の由来はそれなのかと思ってました。最果という言葉も死からそんなに遠くない言葉ですし。そしてそんなイタい人の詩は読まなくて良いかなと思ってました。でも違うんですって。本人が否定していると、Wikipediaに書いてありました。


 ここ数年、名前を見かける頻度が高くなりました。谷川俊太郎や穂村弘といった僕の好きな詩人・歌人と対談しています。俄然気になり始めました。そこで百人一首ネタの本を読んでみることにしました。それが『百人一首という感情』です。
 歌を解説するというより、歌の世界と歌の心を詩人の言葉で表現するような文章でした。たとえば小野小町の「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」の解説はこんな風に始まります。

 桜の花びら、というのは、本当にあっという間に汚くなってしまう。枝の上にある間は、あんなにささやかな色で、華やかに咲き乱れる桜の姿に、好きだとか嫌いだとかいうことなど忘れて、ただすべて連れ去られるのに、ささやかな色だからこそ、簡単に泥に染まって、ぐちゃぐちゃになった土の上の花びらには興ざめするのだ。勝手に。桜からすればそんな軽薄なこと、ないだろう。それでも。(後略)

 これが「花の色は」を解説した文章の第一段落。まるでこれ自体が一つの詩のようです。和歌の言葉に対して誠実に向き合い、詩の言葉で表そうとしています。その言葉がとても心地よい。
 
 そんな最果タヒさんの歌に対する、言葉に対する、あるいは古典和歌に対する考え方を語る言葉を本書から紹介してみましょう。百人一首の百番目、順徳院の歌について語る中での言葉です。

 きみは、忘れるかもしれない、今日思ったことを数年後には忘れるかもしれない。約束も、愛しさも、忘れるかもしれないけれど、でも千年後の誰かが、ふと思い出すかもしれないよ。点滅する光のようだ。完全に消えてしまった、そう思っても、いつかどこかでまた、光るのかもしれない。ずっと、そんなこと思いつきもしなかったけれど。


 『百人一首』や『古今和歌集』、『伊勢物語』などには古い和歌が残されています。その和歌にこめられた心は、もしかしたら作者本人でさえ、長い生を過ごす間に忘れてしまっているかもしれません。
 心はそんな儚いものです。それでも今を生きる人が1000年の時間を超えた歌の言葉に触れたとき、言葉にこめられた心と共鳴することがあります。月の美しさや稲妻の儚さに共感することがあります。
 そうであるなら、この令和の時代に抱く僕らの思いも、1000年後の誰かに届くことだってあるんじゃないか。言葉という器に乗っけた悲しみや感動は、思いのほか正確に1000年を旅することもありうるんじゃないか。


 最果タヒさんは百人一首と向き合って、こんな思いを抱きました。そしてこんな思いを抱いた最果タヒさんの言葉を追うと、僕は歌の言葉、詩の言葉を信じてみたくなるのです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?