過去の出来事から感じ取るずれた価値観の話

これは小学校の時の話で母親が強烈だったからとかたってくれたはなしのかみ砕きから始まる。

小学校低学年の頃、母親が参観日か何かで学校に来たそう。教室の前の掲示板にはたくさんの絵が飾ってあった。そのときのお題はかさじぞうの読み聞かせを受け、かさじぞうについての絵を描こうというものだった。
みんなは紙を横にして、おじいさんが傘をおいたり、おたからをもらったりお地蔵さんが歩いていたりという場面だったそう。かさじぞうにとっての見せ場で、読み手に描かれたいシーンだろう。

俺だけはそうはいかない。母親は唯一目立つ縦向きで描いた俺の絵が人と違いすぎて笑ったという。
というのも、俺が描いた絵というのが、
「おじいさんが傘を売るシーン」だったそう。しかも縦向きで。もちろんそんなのを描いているのは学年で一人もいなかった。しかもなにも言われなくてもみんなが横で描いていたであろう紙をわざわざ縦にして、私は傘を売るのが印象的だったそう。どんな価値感だよ!なんでそのしーんなんだよ!といまでは突っ込みたくなる出来事だと思った。

なぜこの話になったかというと、俺がただ読書感想文に似たレポートを嫌だという話である。
これだけではわからないと思うので追加で話すと、レイチェル・カーソンのセンスオブワンダーという本を読んで、レポートにして今度の授業で少しずつ発表していくという。価値観が違って、「おまえは何を言っているんだ。」という顔をされるのがとても恥ずかしくて苦痛なので嫌がったのである。
後はただ締め切りがギリギリだったのはあるが。

俺は昔から価値観がずれているのは変わらないのだと思った。
このnoteだって過去作をみれば価値観人とは違うよなわけだし、
実際それで「は??」って不思議にされることも珍しい話ではない。
ひととちがうということは普段よりもマイナスに捉えられやすい。どうしてだろう。俺はおれのなかでは正しいことなのに。俺が思考を通さずに見えたことなのに。

そんなことを考えていると価値観ってなんだろうと思うようになる。
価値観とは簡単に酔っ払いにでも頭に残るような説明をするとその人のものさしである。そのものさしが人とは違うのか。
それはそうである。人と目線が違ってしまうのは前からわかっている。しかし、馬鹿にされないためにはどうしてもひとのものさしを使って会話をしてみたいものだ。

終わりも〆も見つからないけどここまでにしておく。
結論俺は昔からおかしかったんだということ。
かさじぞうは笠をかぶるのではなくかさをうることが自分の中で大切だと思っていたことがよくわかった。

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