見た目での判断で起こりうること

実は最近バイトがとても忙しくて、
ほかにもいろいろやってて、
なんだか忙しいなと思っているところだが、
忙しいってほんとにいいことなのかと思う出来事があったので掘り返してみようかと思う。

自分のバイト先の系列が委託業務で出しているお店があり、うちの店からたくさんの人がそっちの店に行っている。
バイトの子ももちろんヘルプに行っているわけだが、その子がすごくて、馬鹿忙しいのに一人でその持ち場めちゃくちゃ頑張ってたって店長が行ってたのにその子は帰ってきてもピンピンしていた。
ほかの日もそんな感じですごいなと思っている、ある一種尊敬するようないい子だった。

今日のバイト中、そのお店が終わって帰ってきた店長とオープンスタッフの時から可愛がってもらっている本社の料理長が飲んでいた。
その店長が僕に「今日大変?」ときいてきた。
忙しいのか的な意味だろうといつもの会話をしていたのだが、
正直精神てんてこまいな自分からしてみれば、忙しくなくても大変なわけで、
ちょっと精神的に大変で疲れてますねと笑い話をしていた。
そのとき、こてつもそこに行くんだぞーみたいな話になった。
自分は渋っていた。
理由が何個かあり、球場の中にあるお店なのでとても人混みでしんどくなるということ、電車移動が辛いこと、集中力が続かないこと、並んで待たれるプレッシャーに耐えきれないことが断る理由なのだろうと自分は思っている。
言ったところでということもあったので、いやぁーちょっと、、としぶったが、店長は大丈夫だという。
自分的には理由を隠してでも阻止したい話である。
実際興味はある。
行ってみたいとも思っていた。
しかしそれで体が持たないことは自分でもしっかりわかっている。
しかし店長は自分が尊敬するようなバイトの子が帰ってきてもピンピンしているから大丈夫だという。

そんなわけがないだろう自分は思う。
その友達もピンピンして見せてるだけでもしかしたらしんどいのだろうかとか考えるくらいなのにそんなことが易々と納得行けるわけはない。
実際大丈夫なのか聞いたら元気な方が自分的にいいんだとか。。。

困ったら相談乗るんでねと思いながら本題。
「俺は俺じゃだめなのかよ」と実は言いたい。
もちろん店長が言ってることはあっていると思う。
しかしそれは店長視点であるということを忘れないでいただきたい。
それが自分がギリギリであると言うことに直結すると思うからだ。

自分自身発達障害者な訳で、困ることとか大変なことが多い。
しかし外面それでは行けないと言うことは自分でもわかっている。
どんなに身内が知っていてもお客さんや利用者さんはそんなことわからないわけだから。
だから自分は「普通に見える努力」をするわけである。
自分がなんとなく出来ないこととか嫌なこととか、
なんとか我慢してなんとか隠して、
体極限まで削りながらいろいろするわけである。
そんな状態なせいで、他の人よりも少ないタスクで疲れることばかり。

それなのに大丈夫だと言われるのってなんだか屈辱だななんて思った。

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