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砂の女を読んで

 西洋音楽がそうであるように人生もまた緊張と弛緩の連続で成り立ってるという考え方がある。
そして、その振れ幅が大きい人とそうでない人の2種がいる。それが本人の意思であれ、外的要因であれ、ね。それを解決したいならその振れ幅を少なくすればいい。その対処法としては西洋医学では対症療法なんだろうし、東洋的思考では、そのどちらも感じない極地「悟り」を促すのだと思う。とはいえ、そのアプローチでの「悟り」は結局のところ二項対立思考から脱するための目的が見えてるから本来の本義から外れてるものになる。結局西洋的よね。
 何が言いたいかというと、現代社会の悩みや不条理、地域格差思考が生まれてる原因ってのは、そういう西洋的思考アプローチから生まれてしまっているのではないかなということ。

何かが正しくて、何かが悪い。常識と非常識。
何かが幸せで、何かが怖い、不安。
幸せも不安もないなんて人間らしくない。
人間らしく生きる!
自分の価値とは何か!

 そんなこと考えながら本屋を歩いていたら、安部公房の特集をやっていた。大学の頃教養程度で数作品しか読んだことなかったのもあってまた読んでみたくなり、家の本棚から引っ張り出してきた。十数年ぶりに「砂の女」を読んで感じたのは、安部公房って不条理を良い意味で条理化してるなということだった。
 その思考自体西洋的じゃないかというのはごめん被りたいが、とにかく、あのリアリズムというのは非常にしっくりくる、というか、心地良かった。カミュやカフカともまた違うような。学生の頃は訳がわからなかったのにね。

 話は変わるが最近、家の近くの銭湯によく通っていて、地域のじいちゃん達とサウナで話してると、ああこの人達は悩みだとか問題意識だとか、そういうものから脱してるなと思うことが多々ある。
言葉足らずなものだから(その手段を知らないくらい、リアルな生活に没頭してるのか、きっとそこに価値を見い出す次元も過ぎてるのだろうね)一見非常にネガティブだし、ある意味「砂の女」の部落的。
「やらねくていい」「無駄だ」「おらがだだばはだらいでふろさはってさげっこ飲めばそいであどいは(俺らは働いて風呂に入ってお酒を飲めばそれでもう満足だ)」等々。
んできっと西洋的価値観を持った人達が彼らの話を聞くと、「地域社会は閉鎖的だ」「話を聞いてくれない」「出る杭は打たれる」って思っちゃうんだろうなに繋がってる気がする。

つまり、西洋的問題解決思考が地域社会のリアルな在り方のみならず、同じことを繰り返すという生活の在り方に、濃くて暗い影を落としてしまっているなということに気付かされた。

自殺する若者が増えているのも、結局こういうところからだと思う。
価値、価値、価値。

そこから何が生まれるだろう。

自由や大事なことってきっと、リアルなところに内在されているということを教えてくれた気がするのよ。そんなこと言いたかったわけじゃないだろうけどね、安部公房は。もっと本質的なもの。何かを伝えたいとかではない、芸術そのものだから、この作品は。

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