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「少しばかり開けた平らな場所」にて

娘と8歳差の第2子が、冬に生まれる予定だ。とにかく無事に生まれてほしい。

ぼくが24歳、妻が23歳で娘は生まれた。若かったぼくたちの子育ては、難しいことが多かった。2人目を考える余裕などなかった。

それでも、長い時間を経て、第2子を迎えたいと思うようになっていった。たくさんの要素が複雑に絡んでいるように感じるが、一方で、シンプルに説明することもできる。

2人目の子どもを迎えたいと思ったのは、夫婦が「ふれる」ことができるようになったからだと思う。身体的にも精神的にも。

「ふれる」と「さわる」の違いについて、伊藤亜紗著『手の倫理』では、坂部恵を参照しながら説明されている。引用してみよう。

「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。(中略)言い換えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう(P.5)

ぼくたちは8年前、未熟だった。自分がどれだけ苦労し、貢献しているかを相手に押しつけ、無防備に「さわる」ことをしていた。ぼくの場合は特に、何度か鬱になったとき、「ふれられる」ことはあっても、「ふれ合う」ことがなかったと思う。方法がわからなくなっていた。特に娘の乳児期には「俺、親、無理なんじゃね?」と何度も思った。

いまでも未熟だが、ちょっとはマシになった。マシになってくると、息苦しさが軽減されてくる。余裕ができてくる。

「直接育児」も「間接育児」も、夫婦の両方ができるようになった。大丈夫に思える。ぼくにとっては、育休で得た経験も大きかったと思う。この記事に書いた。

うつで倒れ気づいたら〝兼業主夫〟に 「普通」である必要なんてない(withnews連載「発達障害とパパになる〜子育て苦闘の7年間」 #16)

ぼくたち夫婦は「ふれる」ことができるようになっていった。

疲れを労わることができるようになった。お互いが強情に主張し合って決裂していたものが、歩み寄って落としどころを探せるようになった。心理的安全性ができあがった。大きなダイニングテーブルを買った。夫婦のスキンシップが自然になっていた。意思決定の間(ま)を合わせられるようになった。寝る前に家族3人で話すことが楽しみになった。娘が小学校に上がって、いろんな人が助けてくれるようになった。娘も自分で自転車に乗って移動できるようになった。娘もまた「ふれる」主体のひとりになった。

毎週1回、家族3人でミーティングをする。娘による「はじめます!」の合図で、1人ずつ順番にそのとき話したいことを話す。毎回、話したことをノートに書いている。ぼくは「最近ちょっと疲れが溜まってる」と言う。妻は「ドラム式洗濯機を買いたい」。娘は「明日学校行きたくない」とか言っている。お互いの心のうちを知る。

村上春樹の表現がしっくりくる。彼はまず結婚し、20代では借金を返しながらバーを経営した。

苦しい歳月を無我夢中でくぐり抜け、大怪我することもなくなんとか無事に生き延び、少しばかり開けた平らな場所に出ることができました。一息ついてあたりをぐるりと見回してみると、そこには以前には目にしたことのなかった新しい風景が広がり、その風景の中に新しい自分が立っていたーーごく簡単に言えばそういうことになります。気がつくと、僕は前よりはいくぶんタフになり、前よりはいくぶん(ほんの少しだけですが)知恵がついているようでした。
ーー『職業としての小説家』(P.35)

彼が「平らな場所」に出て小説家としてデビューしたのが30歳。いまのぼくと近い世代だ。ぼくの場合は、鬱という「大怪我」を何度か経たものの、苦しい20代をなんとかくぐり抜けて、やはり「平らな場所」に出ていた。

視界に”抜け感”がでてきた。娘が3歳や5歳のときには、見えなかった風景だ。逆に言えば、この場所なら、「これからまた鬱になっても大丈夫だろう」と思えている。「鬱になった」と家族に発表して、薬を飲んで、美味しい味噌汁も飲んで、寝て、休んでいればまた治る。だから、鬱になってもいいや。そう考えていると、逆説的に、鬱になりにくくなるような気もする。

再び『手の倫理』から引用したい。伊藤さんは、MIT(マサチューセッツ工科大学)の廊下で、理工系の学生に向けて人文社会系のコース履修を案内するチラシに書かれた「Be your whole self.(まるごとのあなた)」という言葉が目についた。チラシの半分には、黒人女性2人が写されていた。

大学生で、遺伝子工学を専攻していて、アフリカ系アメリカ人で、南部出身で、女性で、演劇にも興味があって……例えばそんな複数の側面を持つあなたを、隠さず全部出していい。ニュートラルな「遺伝子工学の研究者」ではなく、アフリカ系アメリカ人として、あるいは女性として、遺伝子工学を研究することこそが強みなのだ。そう投げかける姿勢がこの「whole」には含まれているように感じました。

 つまりそのチラシがうたっているのは、人と人とのあいだにある多様性ではなくて、一人の人の中にある多様性なのでした。あるいはむしろ「無限性」と言ったほうがいいかもしれない。その「すべて」を、まずは自分が尊重しようというのが、そのチラシが伝えようとしているメッセージでした(P.48)

「無限性」、好きな言葉だ。ぼくは、この「平らな場所」に「無限性」を持つ個体がもうひとり増えたら、どれだけ豊かなことだろう、と思うようになっていった。

なぜ2人目の子どもを迎えたいと思ったのか。

答えは、「無限性」を受け入れられる「少しばかり開けた平らな場所」が、いつの間にか先に生まれていたからである。

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