夜の何もしていないような時間
夕方4〜5時には仕事を切り上げ、ランニングをして、帰ったら息子と風呂に入る。
その後、ぼくは居室にいて、何もしていないと言えば何もしていないし、寝かしつけ、洗濯、食器洗い、翌朝に出すゴミ袋をまとめる、息子がまた起きて泣いたら寄り添う、娘に風呂に入るよう指示する、ハプニングが起きたら対応する、といった細かな家事・育児をしていると言えばしている。
家事・育児のタスク以外にも、家族と今日1日の出来事を話したり、息子が寝たあとを見計らって妻と娘との3人でマリカーをしてみたり、本を読んだり映画やドラマを見たりする。ちなみにこのnoteも夜に書いている。
タイピングで言うならホームポジション。車で言うならニュートラルギア。サッカーで言うならリードしている終盤のポゼッション。
やっぱり、朝8時に家を出て夜8時に帰ってくるような生活では、娘の学校で流行っている遊びを聞くことは難しい。遊びの話なんて無駄だ、とも言われかねない。しかしぼくが思うに、もともとその無駄な時間こそが人生において本質的に大切な時間であり、その余りの時間でぼくたちは仕事や勉強をしているのである。理想論だ。けれども、本来がそういう順番であり、ただそこにいて何もしていないような時間こそが、家族という土壌を肥沃にしていく。
8年前、はじめて親になった頃のぼくは、そこのところをわかっていなかった。仕事は忙しかった。朝8時に家を出て夜8時に帰ってくるような生活だった。時間が余った場合は、英語の勉強をする。貯金計画を立てる。すべては、家族のために。でもどうだろう、家族から「英語を勉強してほしい」「貯金計画を立ててほしい」と頼まれたことはあっただろうか。
養老孟司先生に『手入れという思想』がある。ぼくが毎日毎日やっているのは「手入れ」だろう。決して広いとは言えない賃貸住宅のなかで、毎晩繰り返している。
カーリングに似ているかもしれない。すでに進み始めているものがその先もまっすぐ進んでいくように、先回りして摩擦を減らす。手入れして、ものごとがうまく運ぶようにする。手入れによって家族という土壌を肥沃に保つことができれば、結果として、仕事がうまく運ぶことにもつながる感触をぼくは持っている。
どんと構えていたらいい。
そして早く寝てしまって、朝5時から仕事をするのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?