見出し画像

「音楽のためのSNS」を、やめる。


タイトルの通りだ。


これまでずっと、SNS = 音楽をいかに届けるか、という点に特化してやってきた。でもこれを追求した結果、SNSがあんまり好きじゃなくなっていった。どんどん、めんどくさくなるのだ。

そんな考えが、最近、ガラッと変わった。

よくよく考えてみた。

SNSは本来、僕が一番したいことを叶えられる場所なんじゃないか。それはここ、noteを含む。今日は、今後どんな活動をしていきたいかを考えて出た答えを、つらつらと書いていくことにする。


--- 

表現している目的に立ち返る

僕が音楽をやっている理由は二つだ。

一つは純粋に、音楽という表現そのものがとっても好きだから。音という要素が、最も僕の感情に直結している。聴覚が、五感で最も信じられる。実は理論的でいて、でも最後は感情の表現で突き抜けられる。

もう一つは、音楽が一番、届ける相手に「答えの余白」を残しながら「伝えたいことを届けられる」と思うから。1つのメッセージに、様々な意見が生まれる。歌詞がなければ尚更。僕にとって、音楽を介することの強さだ。


こんな話を前提に、根本的な話に立ち戻る。

アーティスト、創作者として音楽を生業にする僕にとって
「表現」そのものは目的じゃない。
僕は俗にいう「音楽ができていれば幸せ」な人間じゃない。


心の奥にある、
「誰かに何かを伝えたい」を具現化する。


それこそが僕が全ての発信、
そして具体的に行う表現に求めていることだ。


誰かに何かが届いて、初めて目的は達成できる。

趣味として人知れず作り、作品を好きと思うこと。それは目的じゃない。


逆に言えば、例えば趣味でやってる料理でも、
美味しいと思ってもらいたい人に
「美味しい」って言ってもらえれば、目的は達成だ。


うだうだ言っているけど、シンプルに言えば、

伝えたいことをベストな形で伝えたい

というのが、僕の表現に対する目的。
表現の方法は、都度引き出しから選べばいい。


改めて、それを確固たる定義として見つけることができた。


音楽は、表現の1つ

だから、伝えることと手段の順番が逆になるような「音楽をプロモーションする」という行為自体が今、信条に矛盾してる。

手段のための手段を、自分の心の奥底と接着すること自体、大袈裟に言えば「嘘」だ。僕の心を音楽で「フィルタリング」をした時点で、僕の文章や言葉の鋭さは、音楽以上になりようがない。


自分の過去を否定する気はないけど、
去年必死に書いていたこの記事も、
今の僕がしたいことじゃない。

僕はこの「Waterfall」という曲がとても好きだ。夏になると、この曲を聴きたいと心から思う。でも、僕がこの曲が好きなことに、この曲が生まれた背景は関係ない。今の僕にとっては、だ。


「Waterfall」がどんなきっかけで生まれ、どんな楽器を使って、誰が仕上げたかなんて、音楽を聴くための情報として要らないな。って今は思う。

結局、
聴いた感覚で好きかそうでないか、だけしかないから。

余計なことを語れば語るほど、「Waterfall」を聴くときに僕の言葉が曲のイメージを狭めていくのではないか。

今は、そんなふうに思う。

『Waterfall』は僕がこれから未来にやる、自分の中の大きな挑戦につながっている曲なのだけど、それをこの曲のために紹介する気はもうない。この曲をきっかけに生まれた「未来」「夢」 の方が、僕には価値があるから。

--

強調しておきたいのは、
今年の僕は去年より、遥かに戦略的に物事を考えている。

でも、その戦略は安易に

音楽を聴いてほしい = 音楽リンクを露出させるSNS

曲あるいは僕のファンになってもらいたい = 曲ができた背景を語ろう

ではないのだ。

一見、上の考え方はマーケティング的だ。

でも実は、この考え方は「構造的手法」のことしか考えられていない、安易な手法に成り下がっていることに気づいた。

大切だったのは、そこじゃなかった。今の僕には、そう思えてる。


僕がこれから、
自分の人生を懸けてやりたいこと。
誤解を恐れず言えば、


それは音楽ではない。



僕がやりたいのは、
日々変わりゆく「世界と僕との距離」を語ること。
そしてその、距離の中で生まれた想いを、
ありとあらゆる表現を駆使して伝え続けていくことだ。


音楽に全てを捧げて、音楽と共に生き、死ぬことではない。
僕はそう、はっきりと思えた。
だから音楽が唯一の表現手段って考えるのは危険だし、
音楽のためのプロモーションという発想も、僕にとっては愚かだ。


SNS > 音楽 という考え方に

理由は、表現を通じて自分の伝えたいことを総合表現できるから。

画像1

今更?って思うかもしれないが、僕は今Instagramに夢中だ。僕がやりたい表現が、一番いい形で掛け算できたからだ。


と言いつつも、だ。

最初は、僕のSNSをどう使えば一番音楽を自然な形で聴いてもらえるか、みたいなことを考えてこの形式を始めた。

インスタには、TikTok的な縦動画「リール」機能がある。

これを使えば、投稿するたびに左上に、楽曲名とアーティスト名が自然な形で出てくる。僕は、そこに目をつけた。

相変わらずnoteはリール対応してくれない。画角のアスペクト比がおかしいので、早々に対応して欲しいな。

興味を持ってくれた人は是非、
インスタに飛んで僕の動画を見てほしい。

--

インスタのアルゴリズムによって、うまくいけばフォロワー数以上のリーチが期待できるリール機能。この機能を使い始めて、確実に僕のアカウントを見にきてくれる人は増えた。ペースはゆっくりだけど、フォローしてくれる人も増えた。


少し効果が出始めた頃のことだ。
僕はとても大きな「思考の過ち」に気づいた。


SNSは音楽を「売る」ための道具じゃない。




SNSこそが、今の僕の「最大級の表現手段なんだ」って。


無作為にフォロワーを増やそうとしたり、増やしてくださいって関係者に言われたりもして、正直SNS自体に嫌気がさしていた僕にとって、フォロワー増を目的とせず、僕自身の日常、気づきを伝えることを主にしたSNS。素直に、投稿するのがとっても楽しい。

画像2

楽しくなってきて、どんどん表現の幅を広げてみたくなった。楽器や録音機材そっちのけで、iPhone動画用のジンバルレンズを購入した。

音楽を始めた時もそうだったけど、「楽しい」という感情を抱けるまでが忍耐。楽しければ、誰に何かを言われなくても、続けられる。

何をするにも、そういう性格。

音楽を作るときのように、根詰めて、頭でっかちに考えて投稿しない。でも、それぞれの投稿が並んだときの読後感は、ものすごく自分なりに計算して「美」を見出せるよう意識する。

そんな距離感が、今とても心地がいい。


フォロワーを増やせって言われて、どうしようって思いながら考えた結論。でも今は、そんなのは二の次。楽しく、何より「過剰演出がない、リアルでしかない」このインスタアカウントを、僕はとても気に入っている。


---

一方で、ここnoteも、インスタという表現の場を見つけたことで、自分自身のしたいことが明確になった。ここでも同じく、「音楽のための告知」は、作品として残るフィード部分では行わないことにした。


具体的には、「自分が後に見て、自分に学べる記事」を目指すことに。

先日、こんな記事を書いた。心の奥底から素直に思ったことだ。

この記事はきっと、僕がこれから更なるキャリアアップをしていくとき、読み返して、今の自分に未来の自分が「釘を刺す」または「ありがとう」と言える記事だ。自分自身のヒントになるものこそが最も価値がある。僕はそう信じていて、そんな「作品」を、世の中にも届けたい。



「宣伝」は、「宣伝だ」と伝わり、目的を成さない

楽曲『hyperlink』が生まれた背景を語ったこの記事。

上で並べた『Waterfall』の制作背景紹介と、根本的にはやっていることは同じに見えるかもしれない。でも、主は音楽ではなく、僕が「年下の仲間たちから何を学んだか」ということだ。書いていて、曲の告知である感覚は、最後の最後までなかった。

結果的に、この記事はその週の「音楽」カテゴリで獲得した「スキ」ランキング、1位になった。note全体では9位。記事のビューぶりも、正直、これまでの僕の記事とは桁外れの勢いだった。

実感した。
宣伝要素は、無意味どころかマイナスだと。
純粋な感情で、僕は世の中に向かっていくべきだ。
それによって、誰かの心をそっと押せる表現は、何も
音楽じゃなくてもできるって実感した。

自信を持てたよ。
みんな、本当にありがとう。


---

話を元に戻そう。

僕がこれまで培ってきた音楽制作や発信のノウハウは、興味のある方は引き続き読んでいただいて構わない。でも、その時代(2018年〜20年コロナ前)は、世界全体でも終わっていることを、ハッキリと明記しよう。

そんな時代じゃないんだ。

あの頃よりも遥かに、世界全体が「宣伝性」を嫌う時代なんだと僕は思う。自分たちが伝えたい要素を、相手に気づかれないように滑り込ませる「ステルス性」は、本当に伝えたいことを錆びついたものにしてしまう。

広告代理店出身、かつ今も企業のCM音楽など映像への音楽制作を生業にしている僕自身、この事実を受け止めながら生きている。「〇〇を伝えてあげなきゃいけないからクリエイトする」って、もう古い手法になっている。


自分自身が伝えたいから書くし、奏でているんだ。

--

不自然なメッセージは、すぐに透けて見える。
何より、作っている、書いている本人のテンションが上がらない。
そんなジャンクなクリエイティブを、世に出しては、もうダメなんだ。
他人のメッセージを形にする「仕事」だとしても。


過去の僕と、未来の僕への、ケジメ

--

僕はつい先日、とあるクライアントの仕事で、ものすごく嫌な想いをした。不愉快、不誠実極まりなく、そんなバイブスで音楽を作るのは二度としないと決めた。そして、初めて自分から、仕事を途中降板した。

すると不思議なもので、その仕事を断った10分後に、別の電話が鳴った。チャレンジしたかった仕事で、最終的に僕が音楽担当することになった報告の連絡だった。こうして、毒素を一つ一つ、魂から抜き去っていく作業は、絶対に必要だと思えた。

僕はその仕事を通じて、かつてないほど、新たな自分を振り絞った。結果、僕にとって特別意味のある仕事になり、その曲は、その映像は、そう遠くない未来にリリースされる。これこそが真のクリエイティビティだと思った。


その振り絞った仕事には、
とてつもなく、KOTARO SAITOの人格が存在している。


「誰かの言葉を借りたままの表現」で、メッセージは世に出してはいけない。その仕事に対する、明確な「KOTARO SAITOの想い、解釈」を持てないことは、やってはいけない。それは、僕自身の音楽に対しても同じだ。


僕の音楽を聴いてほしい。
僕が関わった映像を見てほしい。
僕の魅力を知ってほしい。


もし、未来の僕がそう思うのなら、今の僕はこう答える。


やましいものは作っちゃダメだよ。
葛藤したとしても、心の奥底にある、一番ピュアな
いつ自分が見ても、嘘じゃないって思えることだけ伝えな。


ってね。
常に聖人君主でいた訳じゃない。過去はもう消せないし、これからも悩むだろう。それでも、せっかく気づけた今から1つずつ、自分自身の表現を、振り返り、省み、変えていこうと思う。


--

ほぼ同義で「食うこと」が目的に、仕事を引き受けてしまっていた過去の僕にも書き残す。未来でまた、そんな僕が顔を出したときのために。


君が欲しい目の前のそのお金は、
自分の「作業」に払われたもの?それとも、
自分への「リスペクト」に対する、正当な対価?
もし前者なら、君がやる必要はないよ。
君以外の、その仕事を心からやりたい人がやるべきだ。
その方が、そのお金は「リスペクト」に変わるよ。


自分自身がいただいて
気持ちがいいと思える対価がいい。


僕の言葉であることが、唯一の意味

音楽に限らず、何かに向き合うときの指針は人それぞれであっていいと僕は思う。誰のことも評価する気はないし、僕が何かを発信したからといって、腑に落ちないなら無視して欲しい。


僕はただ、僕にとって今この瞬間、
正義だと思えることだけを発信していきたい。


それはとても精神力がいる。常に雄弁にモノを語れるほどタフな魂の持ち主でもない。さっきから何度も書いてる通り、ただただ


過去の自分と未来の自分に、ごめん。
と思う発信はもう、したくないんだ。


僕は常に、他人の影響を受ける。
プラスに働くか、マイナスに働くか。それはほとんど、
僕がそのとき、どういうメンタルで生きているかに依る気がする。

周りが言ってるから、僕も発信してみよう。

こんな気持ちで発信をしたとする。それは、音楽という形でも一緒だ。その表現を後で見返したとき、未来の自分は、それがどんなリアクションであれ、素直に「いいこと言ってんな俺」って思えるのか?

褒められたら?いいねがついたら?それでOKか?
OKと思えるなら、それが正解だよね。でも僕は、それじゃ満足しない。
最終的には、自分のそのときの心模様を、嘘なく記せたかどうかなんだ。


Twitterは苦手

その点、インスタやnoteと比べてしまうが、Twitterは僕自身が「自分らしい」と思えてない。無駄にダラダラやってしまっている。いまだに自分らしい言葉の選び、表現へのこだわりを追求できていない。

おそらく理由は、
140字で僕の文体のリズムを作るのが難しいからだと思う。

だからなんだけど、

実はここ最近は、Twitterは必要最低限の告知と、僕の何かをシェアしてくれた人へのリプライのみをやってる。アーティストとして必要最低限の関係者への礼儀と、僕の発信を愛してくれる人への感謝。これしかもう、投稿する気はないんだ。

もし、何かを見つけられたら、Twitterでの発信を、やってみようと思う。
それまで、もし待ってくれる人がいるならば、待ってて欲しい。


SNSが、何よりの作品でありたい

それはつまり、常に僕自身の本質だけを
表現する場でありたいという、僕なりの意思表示。

ちょっと前までは、
音楽を聴くときにSNSが邪魔しないようにしなくちゃ
って思っていた。だけど今は違う。

僕あっての、「KOTARO SAITO」の音楽だ。

音楽はあくまで僕が表現したいことのうちの、「空気として溶け込んで欲しい」と思える要素だ。僕は静けさやチルが自分の本質だとは思ってない。でも音楽には割と、そういう性質を僕自身が求めがち。

ならばいっそ「音楽が軸じゃない。」

そう思えれば、僕はもっと、自由になれるんだ。


僕は、自らの魂のテンションがすぐに変わることを知ってる。
そういう意味で、「チル」は、『STELLAR』でやり切った。

- EASY TO GO - 
なんの話かわからない方は、少し考えてみて欲しい。

今僕が届けたいと思える想いは、この音楽、この言葉に詰め込み切れたと思えてる。これって、幸せなことだよね。すごくそう思う。

画像4

画像3

『STELLAR』で表現したい世界観を、
ビジュアル化し、かつ「ナマ」にしたのが僕のインスタだ。

このアカウントのフォロワーが伸びようと、伸びなかろうと、僕は当面この表現を追求する。自分が繰り返し見たいものを追求するし、音楽も同じく、自分が聴き返したいものだけを世に出すのだから。

勿論、だからと言って音楽作品を当面リリースしない、と言うわけではない。アルバム『STELLAR』をもって、僕が考える「理想のライフスタイル」を形作る行為は、一旦完結した。

これからは、次のフェーズに向かう。

KOTARO SAITOがその「らしさ」を、外へ向いて発信・表現するならば。今、どんなバランス感覚かを、来月7月あたりから少しずつお見せしたい。


SNSと音楽のラグ

音楽とSNSの関係性。
僕は「Web」と「雑誌」みたいな関係だと思う。

SNSには、即時性という何より大きな魅力がある。「旬であること」「ナマ」であることは、何物にも替え難い。

一方で音楽、そしてここnoteは、僕にとって「想い」を作品に昇華した「編集物」と言って間違いない。雑誌を発刊するのに近いと思ってる。

旬さやナマさは、時に「本質」、自分の心の「真実」とは限らないことがあると僕は思ってしまう。対面で相槌するときにふと出る「そうですね」が、同意とは限らないのと同じだ。

長い時間をかけて推敲したもの。
そこには、自分が自分と議論を繰り返した果ての想いが顔を揃える。


音楽や、note。
僕にとってそれは紛れもない作品たちだ。
特に今、noteをはじめとした文筆が、それになれたのが嬉しい。


改めて、よろしくお願いします。

以前より僕のnoteは文体が固く、読む皆さんへの言葉ではないように見えるかもしれない。でも、決して誤解しないでほしい。


今、僕は皆さんと心からの会話をしたい。
文字面ではなく、魂で。だから、この表現を、
一方的な言い投げだと思わないでもらえたら、本当に嬉しい。


ドヤるつもりもない。上から物も言いたくない。
そんな気持ちで僕は「ですます」と付けていたのかもしれない。

でも、気づいたんだ。
そもそも、僕が読んで欲しい人って、本質を見抜いてくれる人だって。言葉遣いが変わったからって、届けたい人たちへの愛は、ちゃんと届くって。


むしろ、今の方が、奥底から、真っ直ぐ投げれてる。
そんな風に、僕は思ってます。


この文筆作品を書くにも、結局2~3週間、かかっちゃった。でも、この色々ありすぎた6月を、このnoteで終えられそうで、ただただ嬉しい。



夏ですね。夜風が涼しくて、ただただ気持ちがいい。


KOTARO SAITO / 齊藤 耕太郎

よろしければサポートをお願いいたします。サポートいただけましたら機材投資、音源制作に回させていただき、更に良い音楽を届けられるよう遣わせていただきます。