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なぜ、ひとりのTVディレクターがコロナ禍に脱サラ起業したのか?【自己紹介】

はじめまして。牟田高太郎と申します。
見慣れぬ名字かと思いますが、「ムタ」と読みます。
下は「コウタロウ」です。
読めない+書けない+聞き取られないのトリプルコンボを食らう名字ですが、九州の「大牟田」なら皆読める不思議。
父方のルーツは九州ですが、
私は職・住ともに横浜拠点の34歳です。

コロナ渦ど真ん中の2020年夏に、
新卒から8年勤めた会社を退職。
ペパーミンツ株式会社という小さな会社を創業し、独立しました。
今は、横浜市のみなとみらいを拠点に「映像ディレクター」という肩書きで、TVを軸に様々な映像に関する仕事をさせていただいています。

「映像で、想いをつなぐ」
ー2020年11月 横浜・山下公園の近くで創業しました


この記事では、
「なぜ今noteを始めたのか?」
「牟田高太郎とは何者か」
「そもそもなぜ起業をしたのか?」
についてお話したいと思います。
(やや長文、どうぞお付き合い下さい・・!)

なぜ今noteを始めたのか?

理由は2つ、

  1. これからの「出会いの場」として機能してほしい

  2. 誰かの役に立ちたい

という理由です。

①は、noteを通して「一緒にチャレンジできる仲間」と出会いたいと思ったから。各界の本気で頑張っている人たちと出会い、いつの日か一緒に刺激的な仕事がしたいからです。
(noteの“人をつなぐ”というビジョンに共感してます)
また「コンテンツを通してより良い社会を実現する」という、自分の夢に繋げられる場になれば良いなと思っています。(唐突に話がデカくなる)

②に関しては、若者気取りの自分も30半ば。いつの間にか映像業界でのキャリアは10年に。さらに起業も経験したことで「自分の経験が誰かの役に立つのでは・・・」と思ったからです。
スマホの進化、YoutuberやTikTokerの台頭など”誰もが映像を作れる時代”となった昨今。「プロとして映像をつくる」ということがどんな社会的価値を持つのかどんなスキルを社会に還元できるのか、など自問自答しながら散文的に発信していければと思っています。飽きっぽい性格なので、noteをしっかり続けてるか、たまに覗いてもらえると励みになります・・!


仕事紹介①:テレビ番組ディレクターとして

大人になると「どんな仕事をしてるのか」が自己紹介と同義になってしまうことに若干物寂しさを感じますが、今回は仕事編。
普段は、映像ディレクターとして主にNHKのテレビ番組を制作しています。 
最近手掛けている番組は、

NHK Eテレ『いないいないばぁ!の演出
 今年25周年を迎えた0~2歳向けの国民的子ども番組
NHK『渡辺貞夫さんのドキュメンタリー』
 御年88歳を迎える日本を代表するジャズ奏者に密着

今はNHK World(国際放送)とEテレで放送中のno art, no lifeという強烈な美術番組を絶賛制作中。
ジャンルを選り好みしている訳ではないのですが、音楽、芸術、教育分野が多いのが不思議です。

オーケストラのコンサート収録現場から
(譜面を読みながら15台のカメラをコントロールする苦難)

前職は『世界の車窓から』で知られるテレコムスタッフという映像プロダクションに所属。テレビ黎明期から数々の名番組を世に送り出してきた歴史ある会社です。

百戦錬磨の個性的なテレビマンに(心身ともに)鍛えられ、文字通り死に物狂いで働きました。新卒で過重労働の代名詞とも言えるテレビ業界に飛び込みましたが、知的労働と肉体労働の両輪で駆け続けた8年間でした。

新卒での会社選びには一切の後悔も感じていないです。特にAD時代の修羅を生き抜いた経験値は、自分にとって今ではなくてはならない財産。学び得た経験や演出手法は、備忘録を兼ねていつかまとめたいなと思っています。

イギリス・ウェールズでの撮影の1コマ

今日までAD・そしてディレクターとして、音楽番組ドキュメンタリー教養番組を軸に多くの番組を制作してきました。
例えば、NHK『又吉直樹の「オイコノミア」』、『ファミリーヒストリー』、『世界はTokyoを目指す』などは皆さんも聞き馴染みがある番組かもしれません。

代表作は?と聞かれたら真っ先に浮かぶのは、NHK BSプレミアム「名盤ドキュメント」シリーズです。日本音楽史に燦然と輝く名盤アルバムの誕生秘話を、マルチトラックテープという楽器の音がバラバラに収録された録音原盤を軸に紐解いていく“マニア的音楽番組”として人気を博しました。

取りあげたアルバムは、はっぴいえんど「風街ろまん」、YMO「ソリッドステイトサヴァイバー」、矢野顕子「JAPANESE GIRL」、RCサクセション「シングル・マン」、喜納昌吉「喜納昌吉&チャンプルーズ」などなど。番組立ち上げから約7年間、ライフワークとして制作に挑んできました。

シナロケ鮎川さん、砂原さん、シンセ松武さんを囲んで。
LPを持っているのが自分(楽しそう)

(CINRA、音楽ナタリー、タワレコさんなど、いつも記事にして下さりありがとうございました…!)

放送は年1回でしたが、OAの度にtwitterに反響の嵐(トレンドトップ10入りも)、著名人からのラブコールも多くてスタッフ一同本当に喜びが大きかったです。(宮沢章夫さんは無事見れたのでしょうか…?)

放送後はCDが品切れしたり、若い世代から作品の再評価が進んだり、テレビの「みんなのメディア」としての特性が遺憾なく発揮された、テレビ冥利に尽きる仕事でした。

嬉しいことに、映像業界ではとても権威のある「ギャラクシー賞」を2年連続受賞するという貴重な経験もできました。また作りたいなぁ…


仕事紹介②:そこに「映像」がある限りー

個人的には、テレビに限らず「映像」を軸にどんな仕事でも楽しんでやるようにしています。(テレビはあくまでひとつのメディアなので。)

例えば、2022年紅白歌合戦に出演し話題を呼んだ、日本を代表するオーケストラ「東京都交響楽団」のプロモーション映像を制作したり、


韓国の放送局MBCと国際共同制作を計画し、ミュージシャン・喜納昌吉さんと一緒に板門店(「愛の不時着」でおなじみの北緯38度線)ロケを敢行したり、

韓国国防省、国連の協力のもと
特例中の特例でロケが許されました
 (写真はコロナ前)

コロナ渦では、沢山ライブ配信も担当。さらに企業のオフィス内にライブ配信スタジオを構築したり、映像領域へ進出する企業の社員さんに映像のスキル教育を行ったり、

ライブ配信の現場から

2021年の年の瀬には、サントリーホールで行われた日本舞踊の舞台演出を担当。映像演出から楽曲制作まで手掛けて死にそうになりました。

映像制作/楽曲制作/映像プロジェクション/映像収録を担当(仕事量…)

こうやって振り返ると、
がむしゃらに色々な仕事をしてきた創業一期でした。
良いことも、思い出したくないほど悪いことも沢山ありました。
なぜ、ごく普通の”テレビ番組ディレクター”がここまで仕事の幅を拡げられたのか?
それはひとえに一緒に仕事をしてくれる仲間、大切な知人・友人、そして強運に恵まれてきたからだと思います。

なぜコロナ渦に独立・起業したのか?

長くなりましたが、本題です。
なぜコロナ渦という混沌の中、ひとりの会社員が起業を決めたのか?

理由は色々ありますが、根幹の答えはとてもシンプルです。

それは、自分の中で「覚悟」が決まったからです。
自分の可能性を、もっと信じてあげようと思ったからです。
自分の人生に、
自分でリミットをかけるのを辞めたかったからです。

出典:ほろ酔いで気が大きくなった筆者

結果、前述のように自分でも驚くような仕事が拡がっています。
私は仕事=人生のような人間なので、
人生が拡がっているように感じ、毎日新しい人生をたのしんでいます。

多くの人の価値観、
特に仕事に関する心が揺れ動いたコロナ渦。
私もそんなひとりでした。

多様な働き方、生き方が尊重されつつある時代。
一歩踏み出してみたひとりの人間の記録として、
まだ見ぬ誰かのお役に立てることを願っています。
(気軽に各種SNSからご連絡ください。)

フォロワーが少ないことを言い訳に、カッコつけた締めくくりをしてしまいました。。我ながら赤面してきましたが、次回はパーソナリティの自己紹介をさせて頂きたいと思います。


最後までありがとうございました。



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