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歌う




『逆光/Ado』を歌わせていただきました。

歌ってみた、は春の『RADWIMPS /おしゃかしゃま』から数えて6曲目になります。

  最近、私は文字で自分の言葉を語るということをあまりしなくなりました。それは自身が歌いはじめて思うことは、すべて音で済むと思うようになったからです。元から自分の思いを一切装飾せず、パピルスのように天然として美しく、テトリスのように理路整然で、ぷよぷよのように可愛いらしく、様々なパーツを嵌めて削ぎ落とし、最もストレートに美しくそのままを伝わるようにするには何が最も最善かを考え、文章にしてきました。それは、文章を編み出す時の私の7歳からの癖でした。

そのような鍛錬にも似た日々を繰り返した結果

  私はあまり面識のない方々に『一刀両断』、『傍若無人』等と形容されるようになったのです(笑)
音は光や色彩なども超え、自分が伝えたい、あるいはそのようなことを全く意識していなくても、「あ」という一音、その一言、ワンフレーズに、すべて情報が込められていると、知ったのです。そのくらい、音には全ての情報が入っています。

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しかも

  更に驚くことは、どのように投げた音を受け取り手に受け取られても、何ひとつ間違ってないということです。
ものづくり、創造することで見受けられる特に音楽の場だと起こりうるのですが、よく、3年ぶりとか首を長くして待っていた新作のやっとの思いで出した楽曲が、作り手の思いと受け取りの思いが異なり「ひどい!」と言った反応や、全く意図していない意味合いに受け取られたり、互いの意思が通じず、理解し合えず「あっかんべー!」と両方が悲しい思いをするという場面に会うことがあります。私も何回か、そういった事がありましたが、今こうして思うと何ひとつ互いにとって誤りはない。作り出す方は、0から作った工程や思い、大変だった技術的なこと、背景のことはわかっていますが、それを受け取る方は、その人のフィルターを通して濾過して受け取っていますから、それはもうその人の中で生きるものです。だから、それはポジティブなものであっても、ネガティブなものであっても、それはもうその人の中でしか息づかない正解で、立派に輝かしい作品なのです。

だから、日本語では『音を楽しむ』と言うのかもしれません。

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この事に気づき、とても腑に落ちた私でした



歌わせてくれて、ありがとう。

20220930

Kotaro/こたろう


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