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【解毒薬】

砂漠でひとり、空を見上げていた。
見上げていた、というよりは、吸い寄せられるような、そんな感覚。

そこは石灰岩地質の特殊な砂漠で、くるぶしサイズから2mを超えるものまで、大小様々な岩の柱が乱立している。

月は出ていない。
あの小さな光だけで、地上の岩々がうっすら照らされている。
それほどまでに見事な天の川が、広がる空に浮かんでいた。

どうしてもひとりになりたかった。

日々生きていると、私の体にはある種の毒が溜まっていく。
数ヶ月かけて少しずつ息が吸いづらくなる、そんな毒。

人間社会を生きるとき、私は「わたし」ではいられない。
いつでもそこには、望まれる型があって、どうしてもその形に合わせようとしてしまう。

「わたし」が「型」に合わせるとき発生する、わたしと型の差分だけ、毒が溜まっていく。

別の言い方をすると、私は「わたし」のままで生きていてはいけないと思っている。
この毒は、自然な形の自分を歪めて型にはめるときに生まれるストレスだと思う。
ありのままの「わたし」は生きてはいけない、という思い込みが蓄積していく。

解毒法は現状ただひとつ、大自然に触れること。
唯一大自然に抱かれているとき、「わたし」の存在を、このありのままの命を許されている気がするのだ。

公園の緑では解毒されないのは、このためだと思う。
公園の緑も、人間にとっての「型」にはめ込まれた自然だから。

本当の自然は、すべてありのまま。
あまりに大きな「ありのまま」の前に、「求められる形でないと生きていてはいけない」という思い込みが、毒が、溶けていく。

そのときの心地よさと言ったら、他に例えようがない。
究極の安堵、いのちの揺り籠、胎内のような心地よさ。
長いこと潜水して、久しぶりに息継ぎできたあの感覚。

「あ、そうか。これでいいんだよな。そうだった。」

いつもそんな言葉が湧いてくる。

毒の発生源は、私の内側にある。
それがどんな形をしているのかも、最近ようやくわかってきた。
その発生源が癒されたとき、もしかしたら私にとっての自然はひとつの意味を失うのかもしれない。

そう思うと、この毒にも少し愛着が湧いてくる気がするのだった。

これまでも疲れると、取りつかれるように屋久島の森に逃げ込んでいた。
太古の森も、輝く宇宙も、ただあるがままそこにあり続ける。
赤子が生まれる歓喜の瞬間も、人類が滅びるその瞬間も。


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