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恒河沙神話について

日々、人生を送るなかでわたしに与えられた、ありがたき数多の経験に触発され、種々様々な思考が、わたしの中を巡り流れている。

それら、たち現れた経験と湧き起こった思考に対して、わたしは強い愛着と感謝の情を抱いている。

なぜなら、それらはわたしの生きようとする意志の、あるいは、わたしという人間にこの人生を歩ませんとするエネルギーの「あらわれ」に他ならないからである。

わたしはその「あらわれ」に、心からの親愛の念を込めて言葉という「かたち」を捧げたいと思っている。
丁寧にラッピングされた美しい装丁の本をプレゼントするかのように。

このことを宣言した今、この文章は、その始まり、試作品にあたる。

さて、この記念すべきひとつ目の試作品では、「恒河沙」という言葉についてのかんたんなメモと考察を添えようと思う。

「恒河沙」という言葉は、わたしのなかに湧き起こった「あらわれ」の中で、いま最もわたしの注意を惹きつけているもののひとつである。
「恒河沙」という言葉と対面することで、今わたしは、ほとんど興奮や歓喜に近い感情を経験している。

今のわたしにとって「恒河沙」は、それくらいに大事な言葉なのである。

「恒河沙」とは、数の単位である。
億や兆、京や垓といった単位よりもさらに大きな単位で、10の52乗を指す。
数字に表現すると、

10000000000000000000000000000000000000000000000000000

である。

恒河沙の「恒河」はガンジス川を示すガンガーを音訳した漢字である。
「沙」は砂を表すので、恒河沙は「ガンジス川にある無数の砂」を意味する。

もともと仏典では、無限の数量の例えとして用いられていたようである。

わたしの名前には偶然にも、この「恒」という字が使われており、ガンジス川とも少なからぬ縁を感じているため、わたしは「恒河沙」という言葉がとても気に入った。

そして「流れ」と「粒(つぶ)」あるいは「塵(ちり)」という象徴に、わたしは強く惹きつけられている。

恒河沙という言葉には、ガンガーに喩えられたひとつの大いなる流れと、無限にも思える砂粒の二つの象意が含まれている。

わたしは、わたしの突き詰めたい世界観に、わたしの人生を通して形作っていきたい物語体系、神話にぴったりの「恒河沙」という言葉に出会えて、今とっても幸せである。本当に幸せである。

よし、今日の書き綴りタイムはここまでにしよう。

これから、恒河沙、つまりは「大いなる川の流れ」と「無数の砂粒」という象徴を基盤として、わたしの中に生じた様々な「あらはれ」を書き記していきたい。

その書き記されたものたちには、「恒河沙神話」という勿体無いくらいに壮大でかっこいい総称を与えたいと思う。
わたしにとって、「神話」という「あらわれ」もまたこの上なく重要なものであり、これに挑むことがわたしの人生の目標でもあるから。

いつか、生き生きとした新鮮な象徴に彩られた物語みたいなものも、ここか、あるいはどこかに書き記していきたい。

では、また。ナマステ。

恒河沙の図

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