その男、御曹司につき 第2話
「は〜。しかし、二十二歳で一億のマンションなぁ。俺には百回生まれ変わっても絶対無理だわ」
受付カウンターの隣の席で、鈴木さんが溜め息混じりの愚痴を零した。遼一とその婚約者が帰った後から、ずっとこの調子だ。
遼一は、俺が思っていた以上に、今回の分譲マンションの購入を以前から検討していたようだった。
『このマンションは立地、構造、セキュリティ、間取り、全て俺の希望を満たしている。施工責任者から直接話も聞いたし、自分でも竣工図を確認して、既に購入の意思は固めている』
内装や設備、オプションなどの説明のあと、ろくに見学もせずにそう言って、最上階の一番高くて広い160平米の4LDKを申し込んでいった。もっと時間をかけてよく考え当て、ご両親にも相談した方がいいんじゃないかと、俺のほうが止めたくらいだ。
学生時代に開発したというインテリアのシミュレーションアプリの収益と、おじいさまから生前贈与された貯蓄や不動産や株式なんかで、現金で一億の部屋が買えるくらいの資産は余裕であるらしい。鈴木さんが百回生まれ変わりたくなる気持ちもわからないでもない。
ちなみに高見沢様との馴れ初めは、彼女も東京の美大に行っていて、卒業前に向こうでお見合いし、知り合ったそうだ。まだ正式には結納を交わしていないが、来年春に結婚することが双方の実家の間で決まっているらしい。マンションの入居開始もちょうどその頃だから、結婚に合わせて入居できる新居を探していたのだろう。申込みの手続き中に、鈴木さんがそのへんの個人情報をうまく聞き出していた。
早期の解散がなければ来年が衆議院選挙の年にあたる。この地域は昔から与党が優勢な土地柄で、その一員である現職の高見沢議員も父親から地盤を引き継いだ2世議員だ。しかし、長引く不況や閣僚のスキャンダルなどが原因で、与党議員に対する世間の風当たりは強く、高見沢議員の再選も黄色信号が灯り始めている。そのため、地元大企業の創業家と縁者になり、再選に向けて地盤固めをしたいのではないか……。というのが、今時珍しい良家の子息令嬢のお見合い結婚に対する鈴木さんの推察だった。跡取り息子が代議員の娘婿になることは、前田建設にとっても悪い話ではないし。
「いいか。宮里。今日はずぇ〜ったいに飲みすぎて粗相すんじゃねーぞ!万が一、お前が失礼をしでかして前田様の予約がキャンセルにでもなったら、お前みたいな新人は即行で瀬戸内の離島に飛ばされんだからな!」
鈴木さんが釘を刺すのは、俺がこのあと遼一と食事に行くからだ。昼間の来店の際、帰り際に、『つもる話もあるから、仕事が終わったら食事にでも行かないか』と誘われた。
7時に迎えに来てくれることになっているので、いつもなら俺が最後に帰るところを、今日は先に上がらせてもらう予定になっている。
「ちょっと、鈴木さん、脅さないでくださいよ!それより、俺、汗臭くないですか?一応、シャツとインナーは替えを置いていたんで、汗拭いて着替えましたけど。スーツは替えがなかったんで……」
遼一がいともたやすく最高額の部屋の購入を決めた瞬間、興奮と緊張のあまり、滝のように全身から汗が吹き出した。普段はそうでもないけど、俺はあがり症で、人前に出たり緊張を強いられる場面に遭遇するとそうなる。そのためシャツやインナーの着替えを職場に置いているのだが、こういうときのために一張羅のスーツも置いておけばよかった。
「どれどれ」
隣で日誌を書いていた鈴木さんが椅子から腰を浮かし、俺も回転式の椅子を回して鈴木さんの方へ身体の向きを変える。鈴木さんが身を屈め、俺の首筋に鼻先を寄せてくる。そのきっちりオールバックに撫でつけられた頭越しに、エントランスの向こうで車が停まるのが目に入った。
辺りが暗くなっているから判別しづらいけど、昼間、遼一が来店したときに乗っていた高級車と似ている。左ハンドルの運転席からは、白い帽子をかぶった運転手ではなく、遼一と思しき長身のシルエットが降りてきた。
「首筋は制汗剤の匂いしかしないけど……」
くんくんと俺の首から鎖骨の辺りを嗅いでいる鈴木さんは、遼一が到着したことには気づいていない。気づいていないどころか、俺のスーツの襟をガバッと広げ、脇へと顔を突っ込んできた。
「す、鈴木さん!そこはいいです!くすぐったいし!」
「こっちも大丈夫そうだぞ。宮里の匂いしかしない」
自動ドアが開くと同時に飛び込んできた人物は……、鬼のような形相でこちらを睨んでいた。
「お前ら……、何やってんだ……」
漫画だったら、背後にゴゴゴゴゴーと効果音が入っていたであろう。そんな不穏なオーラを背負った御曹司の登場で、鈴木さんはぴょんと飛び跳ねるようにして俺から離れた。
「宮里の脇の匂いを嗅いでいただけです。決して怪しいことはしていません!」
鈴木さんの正直すぎる説明は逆効果だったようで、俺たちに向けて眇められた目が、カッと見開かれる。
「あ、あの、俺……じゃなくて私が、前田様とお食事に行くのに失礼があってはいけないと思い、汗臭くないか鈴木さんに確認してもらっていたんです」
「脇を嗅いでくれと、お前が言ったのか?」
「あ、いや、それはその……、鈴木さんのサービスというか、成り行きでそうなったというか……」
「ほ、ほら。そろそろ出ないと、お食事の予約の時間がありますよね?宮里、前田様をお待たせするでない。あとは私に任せて君は早くお行きなさい」
鈴木さんのとりなしで、遼一のキツく顰められていた眉間の皺が、ほんの少し緩んだかに見えた。
「そうだな。こんなとこに長居するのは、ただの時間の無駄だ。薫、準備ができているならさっさと行くぞ」
「あ、はい。じゃ、鈴木さん、あとはよろしくお願いします」
いつ遼一が来てもいいように、手元に置いていたショルダーバックを引っ掴み、カウンターを出る。遼一の背中を追いかけ、自動ドアを出ようとして……、前を歩く彼が急に立ち止まったため、危うくその背中に衝突しそうになった。
遼一は、全開になった自動ドアの先を見つめたまま、動こうとしない。ひと呼吸おき、「薫……、」と思い詰めたような声が聞こえてくる。
「この自動ドアを出たら、俺とお前は客と従業員ではなく、ただの同級生に戻る。敬語もなしだ。お前がもしその切り替えができないのなら、俺は今回のマンションの購入について、考え直さなければいけない」
『万が一、お前が失礼をしでかして前田様の予約がキャンセルにでもなったら、お前みたいな新人は即行で瀬戸内の離島に飛ばされんだからな!』という鈴木さんの脅しが、早くも現実味を帯び始めている。
ひっ!と上げそうになった悲鳴を、無理やり飲み込んだ。
不安になり顔を振り向かせると、鈴木さんが胸の前で両手を握り、ガンバ!のポーズで俺に熱い視線を送ってくれていた。勇気をもらい、再び前を向く。
「かしこまりました。このドアを一歩でも外に出たら、私と前田様は同級生に戻ります」
敬語をタメ語に変えるだけだ。別にそんな気構えることでもないだろう。と思っていたのだ。このときまでは……。
遼一が一歩踏み出し、自動ドアの外へ出る。続いて、俺も二歩進み、彼の隣に立とうとして。急に腕を引かれ、バランスを崩した。気づけば、硬くてめちゃくちゃいい匂いの壁に身体を受け止められていた。
「本当は昼間再会したときに、すぐにでもこうしたかったんだ。だが、あまりにお前が仕事モードだったから、気後れしてしまった」
甘さを感じる声に耳介をくすぐられて。硬くていい匂いの壁は遼一のスーツで、彼に抱きしめられていることを遅れて理解した。
「あ、あの……、前田さ……ぅぐっ!」
名字を呼ぼうとした瞬間、腕に力を込められて、思わず呻き声を洩らす。一瞬、瀬戸内の島々が瞼の裏に浮かびかけた。
「りょ、りょーいち……、俺を締め殺す気か……」
空いていた右手で彼の腰の辺りをぺちぺち叩くと、力が少し緩められる。
「よかった。ようやく昔の薫に戻ってくれた」
二人きりのときは、たまにこういう子供っぽいこともするやつだったなぁと思い出して。もう一つ、大事なことを思い出した。そう言えば、今は二人きりじゃない!
彼の胸の前で顔をもぞもぞと横向けると、受付カウンターの中で、ガンバ!の姿勢のまま固まっている鈴木さんと目が合う。自動ドアも、俺達がセンサーエリアにいるため、開きっぱなしの状態だった。
「りょ、遼一……、とりあえず一回離れようか」
「なんだ?4年ぶりの再会なんだぞ。もう少しこうしていてもいいだろ?汗臭くないか気にしてたから、それが理由か?」
「あ、いや。それもあるけど、それだけじゃ……」
すぐに身体が解放されたから、俺の気持ちを察してくれたんだと思った。しかし、抱きしめていた両手が、背中からすすすと背広の衿元まで回ってきて、ボタンが弾き飛ぶかと思うような勢いで、ガバッと前を広げられた。
「りょ、遼一⁉」
続く動作は、先程の鈴木さんと全く同じ。脇に、顔を埋められる。
「だいじょーぶ。薫の匂いしかしない」
鈴木さんのときより、すーはーすーはー吐息の風を感じるから、多分すごい勢いで匂いを嗅がれている。
「い、いーから、とりあえず離れて……」
4年ぶりに会った同級生に脇を嗅がれ、くすぐったさに身を捩る俺の目と鼻の先には、引き際がわからず、ガンバ!ったままの十個上の先輩……。なんかもう、瀬戸内の離島でもいいかな、という気がしないでもなかった……。
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