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その男、御曹司につき 第1話

あらすじ

 大学卒業後、地元岡山の不動産会社に就職した宮里薫は、マンション部門のモデルルームへと配属された。仕事にもようやく慣れた頃、高校の同級生で大手建設会社の御曹司でもある前田遼一が婚約者連れで来店する。薫と遼一は高校三年生の一年間、親友と言えるほど仲が良かったが、卒業後は疎遠になっていた。
 遼一に食事に誘われ、慣れない高級酒に酔った薫は、翌朝、遼一の部屋で目覚める。しかもどうやら、酔っている間にとんでもない約束をしてしまったようで……!?
 執着系御曹司×平凡善良庶民のハートフルラブコメBL。

※ 他のサイトで完結済み。こちらにはコンテスト応募に必要な字数のみ転載します。

その男、御曹司につき(『Home, Sweet Home!』第1話


 新入社員にとって、5月は鬼門らしい。入社直後はピンと張りつめていた緊張の糸がゴールデンウィークを機に緩み、心と体に不調をきたす人が増えるのだそうだ。いわゆる五月病ってやつ。

 もしかしたらこの眠気も、五月病の症状なのだろうか……。
 睡魔に憑りつかれた回転の悪い頭で、そんなことを考える。

 自動ドアの向こうの通りにたまに人の往来はあれど、今日はまだ一人も客が来ていない。五月病かどうかはともかくとして、暇すぎて気が緩んでいることは確かだった。

 睡魔を追い払うべく、重くなってきた瞼を気合で持ち上げ、字面だけ眺めていたテキストからも顔を上げて、今日何度目になるかわからない伸びをする。

 俺、宮里薫(みやさとかおる)は、大学卒業後、全国展開している大手不動産会社、三友(みつとも)不動産に就職した。社内研修を終えた5月からマンション部門に配属され、モデルルームの接客係という名の店番をする毎日だ。

 そもそもこの不況の時代に、こんな高級マンションを買おうなんて金持ちが、巷にそうそういるわけがない。いたとしても、大抵そういう人達は平日の昼間は働いている。土日なら買う気がなくても興味本位で覗きに来るカップルや家族連れなんかもいるけど、平日はそういう冷やかしもさっぱりだ。

 大学時代に取った宅建士の資格も今のところ役に立ったことはなく、最近は同じモデルルームに勤務する先輩に勧められて、暇な時間にマンション管理士の資格の勉強を始めた。しかしそれも、腹が満たされた午後には、落っこちそうになる瞼を必死に持ち上げながら、テキストの同じ文章を何度も追いかける始末……。

 こうなったら、しばらくは眠気覚ましに今日の夕食の献立でも考えよう。開き直り、テキストを閉じた。

 弁当に入れたピーマンの残りがあったし、今日は火曜日で三丁目のスーパー丸徳で夕方肉のタイムセールがあるから、挽き肉を買って帰ってピーマンの肉詰めにしよう。余った挽き肉はハンバーグにして明日のお弁当にしたらいいし。ジャガイモと人参はストックがあったから、添え物はマッシュポテトと人参のマリネでいいかな……。

 中学の頃に両親が離婚し、看護師の母が女手ひとつで俺とその下の弟と妹の三人兄妹を育ててくれた。高校生の頃から基本的に家事は兄妹で分担していて俺は料理担当だったから、一人暮らしを始めた今でも、弁当を含めて朝昼晩、自分で作っている。

 好きな料理のことを考えていたら、ようやく頭が冴えてきた。
 よし。夕食の献立は決まったし、資格の勉強を再開するか。と思ったところで、強化ガラスの自動ドアの先に、車が横付けされるのが目に入った。

 タクシーで来店する人はたまにいる。エントランス前の車道に横付けされたのは珍しくタクシーではなく、やけに重々しいボディの黒塗りのセダンだった。もしかしたらかの有名な三方向に延びる星型のマークを冠した高級車などではなかろうか。

 出迎えの準備をするのも忘れ、どんな人物が降りてくるのだろうと目を凝らしていたら、左ハンドルの運転席のドアが開き、白い帽子をかぶった運転手ふうの男性が降りてきた。しゃんと背筋を伸ばし、きびきびとした動作で後部座席のドアを開ける。窮屈そうに車から降り5月の陽光の下に現れたのは、遠目からでも海外のブランド物とわかる上品な光沢のスリーピーススーツを着こなした男性と、その隣に立つにふさわしい漆黒のロングドレス姿の女性だった。ガラスの自動ドアに装飾された『三友不動産』の文字が邪魔で、カウンターからは二人の顔は見えない。

「す、す、す、鈴木さん!本物!本物が来ましたよ!」

 本物というのは、冷やかしの見学者ではなく本物のお金持ちという意味だ。受付の後ろのパーテーションで仕切ったスタッフスペースで昼寝をしているかスマホをいじっているであろう先輩に声をかけ、彼らを出迎えるべく、急ぎ受付カウンターを出てエントランスへと向かった。

 自動ドアを開け、その脇に控える形で「いらっしゃいませ」と90度に腰を折って出迎える。先に入ってきたのは男性で、二歩分の距離を開け、ヒールを履いた色白のおみ足が視界を通り過ぎていく。
 足音が止まったタイミングで二人分の足先がこちらを向く。俺も頭を上げ、1ヶ月の研修で叩き込まれた営業スマイルを浮かべてみせた。

「モデルルームの見学ですか?中へどうぞ」

 長身の男性のほうは、襟元しか見ていない。女性のほうはヒールを履いているため身長170センチの俺とほぼ同じ高さに顔があり、ついそちらに目を奪われてしまう。

 片手でおおえるんじゃないかってくらい小さな顔と、女性らしいほっそりした小鼻にアーモンド型の二重の瞳。上向きにカールした長い睫毛が、瞳の美しさを際立たせている。タイトなドレスと調和したストレートの艷やかな黒髪は、腰近くまであった。記憶にある限り、俺がこれまで出会った中で、断トツ1位の美人だ。

「宮里?」

 名前を呼ばれ、ヤベッ、と思った。女性にばかり見惚れていたことが鈴木さんにバレてしまった。これは、あとでこってり絞られるな……。

 慌てて女性から室内へと顔を向けたところで……。あれ?と小首をかしげる。受付カウンターを出て、こちらに小走りで近づいてきている鈴木さんが目に入る。だとしたら、今、俺の名前を呼んだのは……?

 視線を鈴木さんと彼女の間――すなわち、男性のお客様の、きっちりネクタイの締められた襟元へと移す。高級スーツに気を取られていたけど、よく見たら、この人めちゃくちゃ胸板ががっしりしている。いわゆる細マッチョってやつ。こんな美人をものにするくらいだから、金持ちってだけじゃなく、身体もそれなりに鍛えていて完璧なのだろう。

 背の高い彼の顔は、俺には至近距離からだと見上げる角度になる。遠慮がちに視線を上げた先にあったのは……、髭の剃り残し一つないシュッと尖った顎に、薄めの唇。男らしく鼻筋の通った鼻梁。そして、鋭さを感じる目尻の切れ上がった一重の三白眼……。俺より頭一つ分背が高いから、おそらく身長は180センチ後半くらいだろう。その高さから見下ろされる威圧的な眼差しには、覚えがあった。

「お前、宮里だよな?宮里薫」

 先程と同じ声が、今度はフルネームで俺の名前を呼ぶ。

「ま……、前田……遼一(りょういち)……?」

 スポーツマンらしい短髪だった高校生の頃に比べて、少しウェーブがかった前髪を後ろに流したお洒落な髪型とブランド物のスーツは、彼を落ち着いた雰囲気の大人の男へと変えていた。かつて見たことないほどの超ハイグレードなお客様は、なんと俺と同じ弱冠二十二歳のはずの、高校の同級生だったのである。

 目の前の出来事を脳が処理しきれず、完全に固まってしまっていた俺が我に返れたのは、お客様には見えないところで、鈴木さんに背中をグーパンチされたからだ。

「もしかして、うちの宮里とお知り合いですか?」

 眼鏡のフレームを指で押し上げ、鈴木さんが極上の営業スマイルを浮かべる。

「そ、そうです!実は高校の同級生なんですけど、なんと!かの前田建設のご子息様にあらせられます!」

 先んじて答えたのは俺だ。今この場で、俺と彼が同級生という情報はさして重要ではない。大事なのは後者のほう。彼が地元岡山で最大手の建設会社、前田建設の御曹司だということを、いち早く鈴木さんに伝えねば。と思ったのだ。
 案の定、鈴木さんの目の色が変わった。あとは、アイコンタクトだ。

――おい。宮里。わかってんだろうな。
――もちのろんですよ。プランAですよね。がってん承知の助!と心の中で敬礼する。

 プランAというのは、本物の客を落とすための神対応プランだ。最初から受付のカウンターではなく、2階のモデルルームへと案内するし、お出しするお茶やお茶請けも、最高級の玉露と高級和菓子と決まっている。

「そうでしたか〜。なんと、かの前田建設のご子息様がうちの宮里の同級生とは。世の中は狭いものですね〜。積もる話もあるでしょうけど、まずはこちらへどうぞ。後ほどモデルルームを見ながら、ゆっくり昔話に花を咲かせてくださいね」

 鈴木さんが普段の三倍くらい腰を低くして気色悪いほどにこやかに二人を誘導する。遼一は物言いたげに俺を一瞥したが、結局は何も言わずに、連れの美女を伴い鈴木さんに付いてエレベーターホールへと向かった。

 再会の驚きが冷めていくとともに後味の悪さがじわじわと込み上げてきたのは、スタッフルームに引き上げて、ひと息ついてからだ。お茶を煎れながら、そう言えばあいつ、高校の頃、実家のことを話題にされるといつも微妙に機嫌が悪くなっていたよなぁ、と思い出した。きっと子供の頃から、彼を彼自身ではなく、『前田建設の御曹司』として色眼鏡で見る人間がたくさんいたのだろう。再会の挨拶もなしに、上司に彼を『前田建設のご子息様』と紹介してしまった先程の俺が、まさしくそれだ。同級生として、あれはないよなぁ、と自分でも思う。

 でも、まぁ。地元で最大手の建設会社と、自宅近くにあった工務店の違いもよくわかっていなかった高校生の頃ならともかくとして、サラリーマンになった今なら、その『前田建設の御曹司』の立場がどのくらいすごいのか、それなりにわかる。俺の一ヶ月分の給料でも到底買えないブランド物のスーツに身を固め、テレビや雑誌でしかお目にかかれないような美女を妻に娶り、俺が一生汗水垂らして働いても買えないようなマンションを弱冠二十二歳にして買うことができる。それが『前田建設の御曹司』だ。今更もう、色眼鏡なしで彼を見ることはできない。

 元々住む世界が違っていたんだから、こっちが普通っていうか、あの一年間が奇跡だったんだよなぁ。と結論づけて。今日は同級生としてではなく、お客様と店員に徹しようと心に決め、お茶とお茶請けをお盆に載せて、エレベーターへと向かった。

 高校の同級生、前田遼一とその連れの女性は、リビングスペースのソファに座り、アンケートを記入しているところだった。

「Y大の建築学科に進んで、しかもラグビーでも大学日本一ですか⁉ いやぁ。文武両道というのは、まさしく前田様のような方のことを言うんですねぇ。お父様も、こんな優秀な息子さんがおられて、将来はさぞご安心でしょうねぇ」

 案の定、鈴木さんは揉み手で最上級の猫なで声を使い、遼一を褒めちぎっていた。片や同い年の同級生、片や十歳年上の会社の先輩と考えると格差社会の縮図を目の当たりにした気分だが、俺も含めて世の中の大半は鈴木さん側の人間だ。

「それでもしかすると、高見沢様は、あの高見沢議員のご息女ですか?」
「そうです。彼女の父親は衆議院議員の高見沢議員です。よくわかりましたね」

 鈴木さんが遼一側に立っていたから、彼女側に回り、床に跪いてテーブルにお茶をお出しする。二人の会話を小耳に挟み、彼女が記入しているアンケートに自然と目が行く。高見沢麗奈(たかみざわれな)。書道のお手本のような綺麗な字で、名前欄にそう書かれている。

「岡山県民で前田建設と高見沢議員を知らない人間はいませんから」
「あの、くれぐれも、このことはまだ……」
「もちろんわかっております!我々はこういう職業ですから。お客様の個人的な情報を絶対に外に洩らすことはありません!」

 鈴木さんの言葉に安心したようで、遼一は再び手元のアンケートへと視線を落とした。

 アンケート用紙を記入している二人の手には、今はまだ指輪は嵌められていない。一緒にマンションを見に来るくらいだから、そう遠くない将来には結婚するのだろうが、結納はまだなのだろう。地元最大手の建設会社御曹司と地元出身国会議員のご令嬢の結婚となると、婚約も結婚も当人たちだけの問題ではないのかもしれない。

「宮里とは4年ぶりの再会ですか?途中で同窓会とかあったんですか?」

 二人の実家のことについてはこれ以上は掘り下げないほうがいいと判断したらしく、鈴木さんは今度は俺に関することに質問を変えた。どんなお客様相手でも、ものの数分で打ち解けて、和やかに会話ができる鈴木さんのトークスキルは、さすが営業十年戦士だ。

「成人式に合わせてクラスメイトで集まったらしいですけど、僕はラグビーの試合で地元には帰れなかったんです。薫、お前は参加したんだろ?」

 ふいに下の名前を呼ばれ、二人の手元に向けていた視線を慌てて上げる。口元は緩んでいるのに目元は笑っていないちょっと不気味な顔が、俺を見下ろしていた。そう言えば高校時代も、たまにこんな顔で見られることがあった気がする。

「お……私も、そう言えばバイトが忙しくて参加できませんでした。あ、でも、参加した全員が、前田様が参加できなかったことをとても残念がっていたと、同じ大学の藤川から聞きましたよ」

 その年、Y大は大学ラグビー選手権の決勝に残っていた。成人式にも同窓会にも出られなかったのは、実は電車を乗り継いで上京し、遼一の試合を観に行っていたからだ。成人式よりそっちを優先したことを知られたら、流石に引かれるかもしれないと思って、理由については嘘を吐いた。

「勉強とラグビーでお忙しくて、なかなか地元に帰る時間もございませんでしたでしょう?」
「大学一年の夏に一度だけ帰ってきましたけど。あとは学科の課題やらもあって、一度も帰れずじまいですよ。本当は帰省したときに、薫にも会いたかったんですけどね……」

 鈴木さんの質問に答えながらも、何故か遼一はずっと俺の方を見ている。口元は笑っているのに目は笑っていないあの表情で。
もしかしたらそれは、申し訳ないという気持ちの表れなのかもしれないと思った。卒業前、遼一は俺に、『岡山に帰るときは必ず薫に会いに行くから』と言ってくれた。それが結局は帰ってきたときも連絡もなしだったから、ずっと気に病んでくれていたのかもしれない。気難しいところはあるけど、根は優しいやつだから。

 大学一年の夏に遼一が帰省していたことは知っていた。俺と同じ大学に通っていた遼一の元カノが、夏休みに遼一が岡山に帰ってきていて、呼び出されて彼とデートしたと自慢げに話してくれたからだ。一年間だけクラスメイトだった男友達より元カノを優先するのは当然だし、別に気に病む必要なんてないのに。

「前田様にそんなふうに仰って頂けて光栄です。私も、いつか同窓会で前田様にお会いできるのを、楽しみにしておりました。だから4年ぶりにこうして偶然お会いできて、本当に嬉しいです」

 それは決して営業トークではなく、本心からの言葉だった。表情だけは、研修で叩き込まれたせいで、お客様に向けるよそいきの笑顔になってしまっているけれども。

 物言いたげな目がしばらくじっと俺を見ていたが、俺が営業スマイルを崩さずにいると、遼一はそれ以上何も言わずにテーブルの上のアンケートへと視線を戻した。

「それにしても、前田様と宮里が同級生だなんて、話を聞いた今でも信じられませんよ。宮里は高校生の頃と比べて全然変わってないでしょう?」
「変わってなさすぎて、一瞬高校時代に戻ったかと錯覚しましたよ」
「ですよね。こいつ童顔だから、私服だと今でも高校生にしか見えなくて。この前うちに泊めたときに途中で酒がなくなってコンビニに買いに行かせたら、身分証がなくて買えませんでしたって泣きべそかいて戻って来たんですよ」

 もちろん、「泣きべそかいて」は誇張だ。実際は、「しょぼんと肩を落としていた」くらい。鈴木さんとしては、俺をネタにして笑いを取ろうとしたのだろう。しかしながら、「ぷっ」とも「くすっ」とも笑い声は聞こえてこず、シーンと静まり返った部屋に、ボキッ、という不穏な音だけが響いた。

 あれ……? 何か今、ボキッって音しなかったか……?

 音のした方に顔を向けると、ボールペンがころころころとテーブルの上を転がっていくのが見える。遼一がアンケートを書くのに使っていたボールペンだ。

「あー。ボールペンの先、潰れた。つーか、これ、名前と連絡先書けば、もういいっすよね。アンケートとか面倒くせぇ」

 その瞬間――。昔とは打って変わってにこやかで人当たりのよい『前田建設のご子息様』は、どこかに消えてしまっていた。

「で……、では……、アンケートは、ここまで書いて頂ければ、十分でございます」

 何が起こったのか状況を飲み込めずにいる俺の耳に、鈴木さんの上擦った声が聞こえてくる。こんなに動揺している鈴木さんを見るのは初めてだ。だが、そこはさすが十年戦士。こんなふうに急に機嫌を損ねる客にも、何度も対応してきたのだろう。

「そうしましたら、モデルルームの案内に移らせて頂きますね」

 何事もなかったかのように、ふたたび完璧な営業スマイルを浮かべて見せた。

 鈴木さんのお陰で、俺も、そう言えば、こいつはそういうやつだった、と思えるくらいには冷静さを取り戻せた。高校生の頃も、たまに理由がわからず急に不機嫌になることがあった。さしずめ今回は、1秒でも早く彼女との愛の巣を見学したいとか、きっとそういうことだろう。だとしたら、あとは鈴木さんに任せて俺はさっさと1階に退散したほうが得策だ。

 そそくさと二人分のアンケート用紙とボールペンを取りまとめ、湯のみとお茶請けをお盆に載せて、腰を浮かそうとしたところ……。

「あとは、薫ひとりがいれば十分ですから」

 猫っかぶりの顔と声に戻し、遼一はそう言ってのけた。

「へ……? い、いや、でも……、お……、私はまだ、この部所に配属されて一ヶ月ですので……、前田様のようなお客様をご案内するのは、私では力不足かと……」

 今回売り出し中のマンションについて、この一ヶ月の間に一通りの知識は詰め込んでいるし、購買意思の低い冷やかしの客なら、俺も一人で相手をしたことがある。しかし、本格的に購入を検討してそうな富裕層に対しては、いつも鈴木さんや他の熟練販売員が対応していた。それを見極めるためのアンケートでもある。

「大丈夫。お前はいてくれるだけでいい。経験や知識は必要ない」
「はい?あ、あの……、では、せめて、鈴木と私の二人でご案内させて頂くということで……」
「いや。お前一人の方がいい」

 ……???

 頭の中はクエスチョンマークだらけだ。経験や知識は必要ないって、じゃあ何を知りたいんだ?一般のお客様にはお教えできないような裏事情とか?でも、俺もたいしたこと知らないし、いくら遼一相手でもそんなこと喋るわけにはいかないんだけど……。

 眉尻を下げ、どうしましょう、という顔で鈴木さんを仰ぎ見る。普段は、押して駄目なら持ち上げろ、な鈴木さんだが、梃子でも譲ろうとしない遼一に、何かただならぬ気配を感じ取ったのかもしれない。鈴木さんがアイコンタクトで送ってきた指示は……。

 宮里、あとは任せたぞ! 命かけてもこの契約逃すんじゃねーぞ!
 きっと、そんなようなことだった……。

「あの……、では、僭越ながら、今日はわたくし宮里がご案内させて頂きます。えーっと、現在第1期の分譲受付を開始しております、こちらのザ・タワーレジデンス光(ひかり)台(だい)ですが、総戸数293戸、20階建て、全邸南向きのマンションになります。まずはこちらのVTRで建物に関する説明をさせて頂きますね」
「前田建設が造ってんだから、構造や間取りに関する説明は一切いらない。それに、俺たちしかいねーから、敬語はやめろ」

 遼一に口を挟まれ、リビングのテレビで説明用のDVDを流そうとしていた手を止める。

「そ、そうですね。こちらは御社の施工でした。では、建物の構造については説明を省き、内装の説明から入ります」
「だから敬語はやめろって」
「いえでも、前田様はお客様としていらっしゃっているわけですから、私も不動産会社の従業員として失礼のない対応をさせて頂きます」
「客が敬語はいらねーって言ってんだから、それでいいだろ。あと、前田様もやめろ。遼一って昔みたいに名前で呼べ」
「……つまらない男ね」

 俺たちの不毛な押し問答を止めたのは、冷ややかな女性の声だった。

 声の主は、遼一の同行者である高見沢様だ。今日初めて聞いた彼女の声は、想像した通りの耳触りのいいソプラノだったが、「つまらない男ね」という台詞を本当に彼女が発したどうかは我が耳を疑った。しかし、この場に女性は彼女しかいない。ソファに座ったまま腕と足を組んだ彼女が、まるで説教でもするように、遼一に向かって畳みかける。

「こういうときこそ、非日常を愉しめばいいじゃない。薫さんはモデルルームの店員で、あなたはマンション購入を餌に、店員にセクハラしまくる成金社長。そんなふうに想像力を働かせてみたらどうかしら? 人生もっと楽しく過ごせるわよ」

 セクハラ……?成金社長……?もしかして、俺いま、幻聴が聞こえた……?

 ぽかんと口を開けて彼女を見ていたら、「おい」と遼一の声が聞こえ、高見沢様が、ハッと何かに気づいたような顔をする。

「あらやだ。わたくしとしたことが、つい心の声が表に……。ごめんなさいね、薫さん」
「い、いえ!とんでもございません!」

 上品に謝られ、俺は慌ててぴんと背筋を伸ばした。

 アンケートの生年月日では彼女は俺達と同じ二十二歳だったが、話をするまではそれ以上に大人びて見えた。あまり冗談を言いそうには見えなかったけど、いかにもお嬢様ふうの清楚な見た目と違って、意外と気さくな人なのかもしれない。最初の近寄りがたい雰囲気のときよりも、親近感が湧いてきた。

「わたくし、ちょっとお手洗いに行って参りますので。その間にお二人で話を進めておいて頂ける?」

 彼女が席を立ち、せっかく和みかけた空気がまた少しだけ張り詰めたものになる。

「まぁ……。彼女の言うことも一理あるしな。敬語については、どうしても無理なら、ここにいる間はそのままでもいい」

 態度を和らげた遼一は、不服そうではあるものの、完全に毒気を抜かれた顔をしていた。

「高見沢様……、とても素敵な方ですね。前田様と、本当にお似合いです」

 そんな言葉が、口をついて出てくる。間を持たせるための世辞でもあり、心からそう思ってもいた。

 高校生のとき、当時遼一が付き合っていた彼女のことを「可愛い子だね。遼一とお似合いだよ」と褒めると、照れ隠しなのかいつも仏頂面で視線を逸らされていた。今回もそうなるかと思いきや、長い大腿に両肘を置き膝の前で手を組んで、目つきの悪い三白眼が、瞬きもせず真っ直ぐに俺を射抜いてくる。

「薫、それは不動産会社の社員としての言葉か?それとも、お前自身の本心か?」
「え……?」

 質問の意味を、しばし考える。マンションを売るために、心にもないことを言っていると思われたのだろうか……。もちろん、そう思わせてしまうような、慇懃な態度をとっている俺が悪いんだけど。かつての友情にひびが入ったようで、ちょっと悲しい。

「そ、それはもちろん、本心から申し上げております!」

 ちゃんと本心だと伝わるよう声に力を込めると、俺を捉えていた目がすうっと眇められ、低めの声で、「そうか」と一言だけ返された。

 信じてもらえたってことでいいんだよな……?
 胡乱な眼差しの俺とは対照的に、遼一の口元が微かに緩む。

「よかったよ。薫、お前が全然変わっていなくて」

 よかったよ、と口では言いながら、その表情は全く喜んでそうには見えなかった。

 遼一は……、もしかしたら、結構変わった……?

 高校時代には見たこともなかった、獲物を追い詰める捕食者のような不穏な眼差しに、俺は4年という歳月の長さを実感していた。



第2話:その男、御曹司につき 第2話|こた (note.com)

第3話:その男、御曹司につき 第3話|こた (note.com)

#創作大賞2024 #漫画原作部門 #BL


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