『私のトナカイちゃん』考察/メールの文字が変な理由、最終回のメッセージ
ひねりが効いていて完成度が高いと話題になったNetflix『私のトナカイちゃん』(Baby Reindeer)を一気見。鑑賞者のアイデンティティまでが揺さぶられる傑作ドラマだった。
監督・脚本・主演のリチャード・ガッドが自身のストーカー被害を基につくり上げた作品であり、複雑な心理描写は他の追随を許さない。
内容がセンシティブ過ぎて文章にするのが憚られる気もするが、リチャード・ガッド自身が「いろんな考察をしてほしい」と言っているようなので気にしすぎてもしょうがない。
主人公・ドニー&ストーカーのマーサの関係の本質、ラストの意味、なぜメールの文字がおかしいのか?など徹底考察していく。
『私のトナカイちゃん』考察
ストーカーされる側の生々しい話
驚かされるのは、加害者マーサの側ではなく、ストーカーされているドニー側の精神的な問題を取り扱う話であること。
1話からドニーがマーサに優しくしすぎるなど同情、共依存の傾向が見てとれ、次第に加害者のマーサに性的な関心までも抱くようになる。人間の心の複雑さを、ドラマ的にわかりやすく編集し直すことなく突きつけているだけでも見る価値がある。
4話ではドニーが過去に性被害を受けていたことが判明。
テーマがわかってゾッとする。
ストーカーされる話ではなく、トラウマを負った男性が“ストーカー被害によって逆に心の隙間を埋める”作品なのだ。
治らない傷口を別の傷(マーサ)で上書きしようとしているドニー。見ていると本当に心が苦しくなる。
最終回ラストの意味
ドニーは自分に性加害をした脚本家のダリアン・オコナーに会いに行く。
そして「一緒に仕事をしよう」と持ちかけられ、了承してしまう。
2つの解釈がある↓
グルーミング(洗脳)が解けていない
ダリアンの行為を受け止めて、未来へ向かう
2番目の解釈は加害者と和解してしまっているので賛否あるだろう。
ただ現実では性被害に関わらず、人間関係で受けた大なり小なりの傷に何らかの折り合いをつけないとやっていけないケースがあり、それを表現していると考えられる。
トラウマを完全に乗り越えたわけでもないし、トラウマに飲み込まれたわけでもない。中間地点をどうにか歩いているのだろう。
マーサからの留守電をポッドキャストのように聞いて涙を流すドニー。バーでウォッカのコーラ割りを注文する…しかし、お金がない。イケメンのバーテンダーが「おごるよ」と言ってくれた。バーテンを見るドニーの目が輝く。最後のシーンは何を意味しているのか…。
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