真似ることの大切さ

初めに書いておきます。もしかすると気分を悪くされる方もいるかも
しれないので、すぐに理解しようとしなくても大丈夫です。
「こんな考え方もあるんだなぁー」くらいに流して読んで貰えると
嬉しく思います。

真似をする」という行いは、現代では よく「パクる」という
言葉で表現されていることが多い。
この「パクりだね。」とか「どうせパクったんでしょ?」や
「パクった だけだろ。」などとパクること卑怯みたいな
イメージが 強く刷り込まれている為。「パクる」=「悪い」の
意味合いで、発言してしまう人は少なくないと思う。

だが、よく考えてほしいのだけど。 学校の授業で教わったこと
なんかも全部パクりから始まっているのだと いうことに気づいてほしい。
例えば、国語の漢字は 教科書通りにノートに何回も書いてきたはずだ。
言い方を変えれば、何回もパクってきたからこそ漢字を書くことが
出来るし、漢字の読み方も始めは 丸暗記したからこそ。
それを応用して、次々と覚えることが出来るようになり、難しい漢字など
も読むことが出来るようになったわけだ。
なので、丸暗記=丸パクり ということになるので。
「パクる」=「悪い」というイメージを払拭してほしいと思う。

また、現在の小学生たちの授業は全く知らないので何とも言えないが。
僕が小学生の頃には、漢字をアレンジして独自の字を編み出すやつなんかは
僕の記憶の限りでは一人もいなかったと思う。
つまり、「真似をする」=「パクる」やつしか いなかったことになる。
なので、良い知識はどんどんパクれば いいと思うのだ。


ここから本題に入ってくるのだが、例として「パクツイ (パクりツイート)」
について考えてみる。 昨今ではパクツイは通報されて、パクツイした人の
ツイートを消すことが出来るらしい。本当かどうかは知らないが。
「パクり」=「悪」になっているので、見つかってしまうと直ぐに通報
されてしまうのだろう。
なぜ「」のイメージが強いのかは、おそらく画像や動画などには、
著作権が関わってくるからだと思われる。
特に、お金が絡んでくるものには、無断転載禁止などで法律までもが
絡んできてしまう為、犯罪となってしまい。
「パクり=悪」のイメージが取れないのだと思われる。

(著作権に関しても言いたい事は山程あるが、ここでは割愛させて貰います)
なので、著作権に関しては一旦 置いておこう。

パクツイの言葉、または名言? についてなのだが。言葉については
パクっても良いでしょ!? そんなにダメかな?
漫画スラムダンクの名言「あきらめたら そこで試合終了ですよ。」を
パクって書いてあるページなんてネットで検索すれば 五万と出てくる。
これは許されるのに、見ず知らずの他人の名言っぽいツイートを
パクったら通報されて、挙句 消されてしまうとか。
みんな厳しすぎやしないか? それすらも許せない程の正義感って
安っぽく感じてしまうなぁ… 。

少し考えたら理解できると思うのだけど、そのパクツイのおかげで
元の名言っぽいツイートが拡散されて広まっていくことに気づいてない
のではないだろうか。それなら、リツイートすればいい とか思う人も
いるだろうけど。 僕からすれば、どっちでもいいと思うのだ。
パクツイする人は、パクツイするだけであれば それだけの評価しか
されないわけだから。当人に魅力があれば、ファンはつくだろうし。
魅力が無ければ、自然に人は離れていくので放っておけばいいと思うのだ。
もしかしたら、パクツイするやつにファンがつくなんて許せないなんて人も
中には いらっしゃるかもしれないが、別に誰にどんなファンがつこうが
どうでもいいと思うんだけど。そこは自由じゃダメなのかな?

もし、躍起になってパクツイ通報をしている人がいるのなら
その人は、それが生きがいになってや しないだろうか?
そんなことに無駄に時間を使わないで、本当に自分のやりたいことに
時間を使った方がいいのでは ないかと思う。


それと余談になるけど。「使い回す」のと「パクる」のは違うと思う。
使い回すのは、元々あるモノを 他の場所 や 他の媒体で そのまま
使うことを意味していると思うので、理解しようとする意志が
ないから。「使い回す」だけでは 人の成長は しないと思うのだ。
対して「パクる」という行いは、理解しようとしながら
真似をするので。 真似をした経験 知識 が身に付いていくのだと思う。

僕の「歌詞」を広めることに使わさせて頂きます。その過程は、ブログ『https://ameblo.jp/kotonoha-lab/』で見ることが出来ます。