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漢字が書けない作者の小説      「始まりの日」

駅に着くと、冬枯れの木に巻き付いた電球が規則正しく何度も何度も同じ点滅を繰り返していた。
午後八時半、辺りはすっかり真っ暗になっている。
金色のライトが駅前のロータリーを華やかに照らす。母親と手を繋ぐ男の子が小さな頭を上に向けて、イルミネーションを眺め続けている。
「ほら行くよー!」
母親は、そう言ってダウンでまん丸になっている子供の手を引いて行く。男の子はイルミネーションを見続けながら引き摺られるようにとぼとぼと歩いて行った。
手を繋ぎ暖め合うカップル、肩を並べて歩く高校生…。
丁度、目の前で止まったタクシーに乗り込んだ。行き先を告げると静かに発進した。
窓の外では、一組の家族がイルミネーションの下で写真を撮ろうとしている。母親と姉に見守られながら、黄色いニットを被った少年は父親に肩車をされている。
興奮した少年は、手足をばたつかせて緑のライトに手を伸ばしていた。
タクシーは輝く駅前から外れ、どうしようもなく暗い闇の中を進んでいった。

二日前、親父がもう長くないと母から電話があった。俺には何も言って来なかったが癌だったようだ。もう三年近く、実家には帰っていなかったし親父のことだから俺には知らせるなと母と姉に言ってあったんだろう。
ともかく、何も分からないまま、会社に休みをもらって出来るだけ早く帰ってきた。急ぎの商談を後輩に任せて、やっと今日の午後、新幹線に乗り込んだ。
親父は漆塗りの職人で、そこそこ有名な職人だった。職人だったこともあり、俺はとても厳しく育てられた。六つ上の姉は可愛がられていたのに、俺は物心つく頃からあまり可愛がられた記憶がなかった。
そして、昔気質の親父と俺は高校生になった辺りから話を全くしなくなり、大学は都市部に行ったため、ほとんど合うことは無くなっていった。
古臭い伝統に固執し続ける親父とは対象的に、都市部で世界を相手に仕事をする自分はすでに親父を、越えていると思っていた。
そんな関係だから、ついさっき新幹線の中で親父が死んだ事を聞いた時も、動揺は少なかった。
だけどそんな親父も自分の親だ。全く動揺しなかったり、悲しくなかった訳ではない。だけど、病室で泣く母や姉に比べれば悲しみは少ない気がした。
病室のカーテンを開けて入った時、泣いている姉と母に手を握られながら穏やかな顔で親父は寝ていた。
次の瞬間には起きてきそうなくらい穏やかな顔だった。

男なら人前では泣くな。


こんな時も泣けないのか。

もう誰も周りにはいないのに、涙は出なかった。窓の外では街の明かりが少しずつ消えていく様子が見えた。さっきまであった光が次の瞬間には消えていく…。
外の明かりがほとんど無くなった頃、姉が俺を迎えにきた。
「安置所に運んだから、一回家に戻ってて、後で持ってきて欲しいもの連絡するから。後は私がお母さんについているから大丈夫だよ」
「分かった…。じゃあ家で連絡待ってる」
死の匂いが微かに漂う暗い病院を、出口に向かってひたすら進む。ゴーストタウンの様な不気味な静けさの中を歩く。すれ違う看護士や医者は皆疲れきりながらも、ピリピリとした緊張感を持っている。
誰とも挨拶を交わすことなく病院の裏口から外に出ると、凍りついた空気の海に入ったようだった。深海の様な静けさの闇の中に一台だけ灯りをつけたタクシーを見つけた。
近づくと、運転席で眠る若い女性が見えた。運転席の窓を二度軽くノックすると、ゆっくり伸びをして運転手は起き上がった。
俺は、客席の方に回ってドアが開くのをまった。タクシーに入ると、中は暖かく、眠るのも分かるような気がした。
「どこまででしょうか?」
「商店街の方までお願いします」
「了解しました」
特に会話もなくひたすら暗闇の中をタクシーは進んで行く。家々の灯りは殆ど消えていて、オレンジの街灯だけが、夜道を照らし続けている。同じ光が何度も何度も繰り返す。動いているのか、それとも同じ所をぐるぐる回っているのか分からなくなる。
「お客さん。大丈夫ですか?着きましたけど」
ふと、気が付くと、涙が溢れていた。なぜかわからない。そして、いつの間にか実家近くに着いていた。
「あっ、大丈夫です」
涙を袖で拭き、お金を払ってタクシーから降りる。角のコンビニに向かって歩く。街灯には、光に集まる虫がパタパタと羽を動かして、群がっている。
コンビニの中には、客は殆どいない。疲れた顔の店員が一人と、商品の整理をタブレットを抱えながらする店員が一人、アイスの棚に若い女性が一人だけいた。雑誌の棚を通り過ぎ、奥の冷蔵棚から、お茶を一本、酒を一本手に取る。そのまま隣の棚で、おにぎりを二つ取ると、真後ろの棚に掛かっていたナッツを一袋手に取った。
甘い物のコーナーを通り過ぎ、レジに向かう。疲れた顔の若い男性店員が、聞こえるか聞こえないかギリギリの「いらっしゃいませ」を放り投げる。淡々とバーコードを読み取り、合計金額を読み上げる。
「八九三円です」
ビニール袋を持ち上げると、重さがずっしりと感じられた。外に出ると、寒さとビニール袋の重さで手に痛みを感じた。
玄関のドアを開けて家に入る。冷たい廊下を歩き、リビングのドアを開けて、ソファーに座る。テーブルの上にあるエアコンのスイッチとテレビのスイッチを点ける。
香港のデモのニュースが流れていた。
どれだけ血が…、家に帰れなく…。ニュースキャスターと香港人のインタビューが、流れ続けている。香港にいるはずの知り合いのことを少しだけ思い出した。
どれだけの日本人がこのニュースを本気で見ているのだろうか…。
ふと、そんなことを考えた。香港の方には悪いが、あまり興味はない。今の俺には何も響かなかった。
酒を飲み一人テレビを見続ける。酒は飲んでも、殆ど味がしなかった。
酒もなくなり、二階の部屋へは重い足どりのまま階段を上った。部屋は、出ていった三年前と全く変わっていなかった。
ベッドに向かって歩くと足がもつれて転びそうになった。学習机に手をついたが、なにかで手が滑り、そのまま転んだ。
腰を擦りながらゆっくりと立ち上がると床には一枚の封筒が落ちていた。封筒の端には黒い汚れが付いている。
中には畳まれた紙が一枚入っていた。
開くと、滲んだインクの不恰好な大きな文字が並んでいた。

『お前ならできる 多くの人を助けなさい  俺の自慢の息子へ 父より』

「なぁ。もっと早く言えよ」
一枚の紙がくしゃくしゃになるほど強く握りしめた。

~二年後~
ひさびさに墓の前まできた。昨日、母と姉が来たからか、綺麗な花が花立に添えられていた。線香をつけて拝む。
「そうそう、こないだ香港で貰って来たからお裾分け。なんか良いやつらしいから味わって」
そう言って、バックから取り出した酒を水受けに入れた。

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