見出し画像

色のある世界

  1
見えない光の中に、今いることは分かってる。なんとなく感じる熱は光がやさしく自分を包み込んでいる証拠だ。
芝生の柔らかい感触が首にチクチクと刺さってくすぐったい。ミドリの匂いがする。木と草と花の匂い。シロいワンピースがミドリの芝生に映える。
さっきまでの光は遮られ急に暗くなった。
いっつもオレンジの匂いが香る。彼が来ると。
「寝てんのかよ」
「寝てないよ」
「あっそ、目閉じてるから寝てんのかと思った」
そう言いながら、彼は私の隣に座る。彼は、噓つきだ。本当は知っているはずなのに…。
オレンジの匂いが少し強くなった。


  2
また、病院に今日も通う。毎週水曜日、病院の中庭で彼女を見かける。彼女の後ろ姿に、木漏れ日が当たって、白いカーディガンがまばらに光を反射する。風の動きと一緒に光は揺れ動き地面の芝にスポットを当てる。
芝生を踏む音に気づいて、彼女はこっちを振り向いた。
「また来たの?」
そう言って、呆れた顔で麻衣は笑った。
「別にいいだろ。この場所が好きなんだよ。それにまだ完成してないし」
「今日は、どこを描くの?」
「麻衣から見て、十時の方向」
「へー。メインで描くのは?」
「駐輪場」
「何それ、変なの」
馬鹿にしたように麻衣は笑う。少し大きめの声で。麻衣の隣に座って、木に寄りかかる。鉛筆を取り出して、木の方を向いて書き始めた。麻衣は、黙って俺の横に座っている。

クシュン。麻衣のくしゃみとほぼ同時に下書きが完成した。二時間ほどだろうか、いつの間にか辺りは夕暮れになっていた。鉛筆とスケッチブックの片付けを始めると、麻衣はまた話しかけてきた。
「今日の夕方はどんな?」
「今日は、黄色よりも赤に近い夕焼けだな。雲は、空の3割くらい。麻衣の真上はもう夜だよ。麻衣から見て二時くらいに太陽が沈もうとしてる」
「いいよ。そんなに細かくなくて太陽の位置くらい自分でもわかるし」
麻衣は太陽の方を向いて立ち上がって大きく手を上に伸ばす。そしてこっちを振り返る麻衣の姿は、キラキラと輝いている。まあきっとそれは逆光のせいだと思う。
片付け終わって立ち上がると、立っていた麻衣が左手を真っすぐ前に伸ばした。
「早く、手、出して」
「今日は白杖持ってるから大丈夫でしょ」
「あ、サイテー。困ってる人には優しくしなさいって教わらなかったの」
そう言ってわめく麻衣に負けて俺は腕を組む。公園を出て、大通りを二百メートル。小さな商店街の入り口で麻衣と別れる。
別れ際、麻衣は言ってきた。
「そうだ、勉強進んでる?なんか分かんなかったら教えてあげようか?」
「別に、大丈夫ですけどー」
「何その言い方―。私の方が先輩なんですけど」
「一つしか変わんねーだろ」
「一つでも先輩ですー。まあ頑張りなよ受験生!」
そう言って、麻衣は俺の肩を叩くと、商店街の奥へと歩いて行った。

  3
「ご飯できたよ」
「うん」
ニュース番組が流れるリビングで、母と二つ下の弟と夕飯を食べる。
「雅彦。あんた勉強は大丈夫なの?医学部受かんなきゃいけないんだからね」
返事はしない。ただ、誰かの不倫とか、自殺とか、どうでもいいニュースが食卓に漂っている。食器をシンクにさげて、リビングを出る。俺の背中に向かって母は言った。
「お風呂入る前に、勉強しときなさいよ」
母に反応することはなく、俺は自分の部屋に入っていく。弟は、リビングで休んだまま、テレビとスマートフォンの世界に入り込んでいく。
ドアを閉めると、頭痛がひどくなったように感じた。ベッドにそのまま倒れこんだ。ゆっくりと頭の奥から血液の中を流れる痛みで、時間の流れを感じる。
真っ暗な中で、痛みと雨の音だけが自分の生を実感させる。
面倒だからもういいや…。対して汚れてないし。風呂も歯磨きすら面倒になってそのまま俺は朝まで眠りについた。
「兄ちゃん朝だよ」
毎日俺の部屋を開けて俺を起こすのが中学三年の弟の役目だ。太陽はもう目覚めてから数時間が経っているからか、明るすぎてうざい。頭はまだ、活動していないが、寝間着でとりあえず朝食を摂る。朝食は、一枚の食パンとヨーグルト。麦茶でパンを流し込んで、外に出る。空は、痛いくらい蒼くて、雲はほとんどない。太陽の光が、ガラスに反射して、目に入る。思わず、手で顔を覆った。
家から外に出ると目に入るもの全てがいつもより少しだけ鮮やかに見えるような気がする。なぜだろうか、でも家にいたくないだけで学校に行きたいわけではない。
まあわかってる、どこに行きたいのか自分でも分かってる。
だから、そこに行きたい気持ちを抑えながら、一週間を過ごす。その前に今日という日を消化しながら生きて行く。

    4
水曜日、またいつもの様に、病院へ。
ずっと体調が良くないのに、何故か水曜日だけは体が軽い気がする。
ホントはなぜだか分かっているけど、なんとなく口にするのが恥ずかしくて、自分で自分を誤魔化している。
日が落ちるまでの数時間。このためにきっと今、自分は生きているのだと思う。
中庭の中心に生えている木を見上げて今日も麻衣は立っている。
こっちを振り向いて麻衣は、いつもと変わらない笑顔で言った。
「また来たね。今日は何を描くの?」

    5
麻衣を見ながら鉛筆を動かしていると、今日は麻衣が話しかけてきた。
「私さ、やっぱり経済の勉強したいから、大学に行こうと思う」
特に強調しているわけでもなく独り言のように、さらっと呟かれたその言葉に、衝撃を受けて、言葉に詰まった。
沈黙が流れる。
頭の中には、一つの言葉しか思い浮かばなかった。

『無理じゃん』

数十秒の沈黙の後、それを破ったのは俺からだった。
「そっか。じゃあ来年は俺と一緒か。おっ、お互い頑張らなきゃな」
また、沈黙が訪れた。麻衣は何も言わない。沈黙に耐え切れずに俺は鉛筆を当てもなく動かした。
二人とも黙ったまま、数分が経った。今度は麻衣が俺に笑いながら言った。
「さっきさ、大学行くって言った時、無理だって思ったでしょ」
麻衣は俺に手を出して言った。
「面白いもの見せてあげるから、手引いて」
何のことかなんて全く分からないけれど、麻衣に言われるがまま、俺は麻衣をリハビリ室まで、連れて行った。
「綾子先生~。パソコン貸してー」
「あれ、今日も来たの?いつもは休むのに。てか誰なの、その後ろの彼は」
「頭硬すぎ君です。彼に面白いもの見せてあげに来たの」
(俺の頭のどこが硬すぎなんだよ)
そんな風に思っていたツッコミは、ものの数分で、その麻衣の言う通りだったということが証明された。
麻衣は、先生からノートパソコンを受け取ると、電源をつけた。画面が映ると、横にいた先生は、何やら寿司の絵が流れてくる画面を出した。
「今日はどうする?」
先生が麻衣にそう聞くと、
「もちろん、今日も高級でしょ」
「おっ、やるね~」
そう言って先生は高級をクリックする。すると、画面が待機状態になり、麻衣は一度伸びをして息を整えた。
キーボードに指を置いて、エンターキーを押す。すると、文章と寿司が流れてきて、先生がそれを読み上げると同時に、文字を打ち込んでいく。
二分間、ひたすら流れてくるお寿司と格闘すると、結果が表示された。
結果は一万千円。
「いまいちだな~」
麻衣は結果を聞くとそう言って、椅子の背もたれに脱力して体を投げた。天井を見上げる麻衣が言った。
「どう、意味わかった」
「いや、全然意味わからん。遊んでただけじゃないの?」
「やっぱり、頭硬いな~。今は、タイピングをやってたわけ」
「だからどうしたんだよ」
「これでも分からないの?」
そう言って、肩をすくめて少し俺を馬鹿にするように笑った。その後の、麻衣の説明でようやく俺は、さっきやっていたことの意味が分かった。
つまりは、パソコンがあれば、授業に困らないという話だったのだ。
大学の授業を、ワードなどでメモし、それを後で読み上げ機能で読み上げながら勉強していくという話だった。ヘッドホンをすれば、読み上げ機能で、テストやレポートを書くことにも何の問題もない。

   6
麻衣と二人の帰り道、楽しそうに、大学に入学したらどうしたいかを語る麻衣を見ながら、自分が恥ずかしくなった。
夜、今日のことが頭に残って眠れない。
きっと自分は見えない壁に、四方を囲まれていたのだと知った。
魚は、餌と自分の間にガラスの壁を作ると、最初は何度も餌のためにガラスにぶつかる。
だけど、そのうち、壁の向こうの餌に反応しなくなり。ガラスを抜いても、餌を食べに行くことはなくなるらしい。
自分も魚と同じなんだと麻衣を見ると強く感じる。

絵なんか描いてても、お金になるのはほんの一握りなんだぞ。
どうせ趣味の範囲なんだからちゃんと勉強しなさいよ。
絵もいいけど、ちゃんと将来のこと考えなきゃな…。
もう少し勉強すれば、ランク一つ上げられますよ。
絵なんて、お金にならないじゃない。
とりあえず勉強しなさいよ。
どうせ、趣味なんだから。
絵なんて描いてても…。
生活なんてできない。
もっと上がいる…。
仕事にならない。
やるだけ無駄。
意味がない。
無理…。
…。


それってホント?

壁なんてそこにないみたいに、麻衣はトコトコ歩いてきて、うずくまっている俺の肩に手を置く。
「ねえ、顔上げなよ。壁なんてどこにもないじゃん」
顔を上げると、麻衣の後ろには、色鮮やかな世界が広がっている。
俺は、緑が生い茂る芝生の上に座っていて、その上にはいつもの木がやさしい木陰を作っている。
麻衣は木陰から飛び出すと、優しい光が注がれる太陽の下で、手を目一杯、大きく広げて大きな声で微笑みながら俺に言う。
「この世界のどこに行ったっていいんだよ」


   7
太陽がカーテンに透けて、目に入ってくるのが眩しくて、目を覚ます。
いつもより少しだけ、鮮やかに見える部屋。
いつもより少しだけ強いコーヒーの匂いをリビングから感じると、そこには親父が座っていた。
ニュースのついたリビングで、ソファーに座り新聞を読みながら、コーヒーをすすっている。
親父の背中に、なるべく自然体を装って、俺は言った。
「おはよう。俺、芸術系の大学行くことにした」
新聞を持ったまま、親父はいつもの様に、朝の少し低いトーンで言った。
「そうか…。今日は、休みだしステーキでも食べるか」

  8
「パパ! 今日は何の絵描いてるの?」
「パパのお仕事の邪魔しないの!」
「いいよ~。丁度、休憩しようと思ってたところだし」
右足にくっつく、小さな体を抱きかかえて、絵を見せる。
「今日はどんな絵なの」
「そうだね、緑のきれいな芝生が小高い丘になってて、右側がテッペンになってるんだけど、そこには、一本の桜がきれいな薄ピンクの花を咲かせてる。その下に、白がメインで花柄のワンピースを着た女の人が座ってるね」
「パパ。ウソは良くないよ。色は白と黒しかないじゃん」
「じゃあ、それはみっちゃんには、見えてないだけかもね。だってママにも見えるよ~」
小さな、体は腕から滑り降りると、麻衣の方に走りながら言った。笑って言った。
「ママもウソつきだ!」
俺は、振り向いて微笑んで言った。
「ミチコは頭が固いな~」

リビングの小さな棚の上には、二枚の卒業証書とその真ん中に一枚の家族写真が飾られている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?