反田恭平

21世紀に音楽を評論・批評する ~「主観偏重」と「提灯持ち」から脱するために

 かつては権威を振るった「音楽評論家」という職業も、現在では地盤沈下が激しい。音楽を評論・批評する行為が、以前ほど力を持たなくなったのは何故なのか。少しばかりではあるが、考えてみたい。

――音楽評論に「期待されるもの」と「現実」とのギャップ

 まずは原点に立ち戻り、音楽分野では明確に使い分けされないことの多い「評論」と「批評」という2つの単語を新明解国語辞典(第7版)で引いてみよう。

【評論】
〔専門の分野や社会の動向などについて一般読者を啓発するために〕自分の意見を加えながら解説すること(したもの)。

【批評】
物事の良い点・悪い点などを取り上げて、そのものの価値を論じること。また、そのもの。

この説明に従えば、【評論】には「プロフェッショナルな聴き手として、一般の聴き手にお手本を示す」という要素が読み取れ、【批評】には「試験やコンクールで評価するように、出来るだけ客観であるべきだ」[脚註1]という要素が読み取れる。日本における(特にクラシック音楽に関わる)音楽評論は、この2つのイメージが重なり合ったものだと考えられる。

 その上で、音楽評論が次第に力を失っていった要因を考えてみよう。もちろん、様々な要素が絡み合っていると考えられるわけだが、特に大きな理由として想像できるのが次の2点だ。

 1)評論が独断と偏見によるもので、主観に偏り過ぎている
 2)レコード会社や音楽事務所などの提灯持ちに成り下がっており、評論が信用出来ない

つまり、いずれにしても客観性が問題とされているわけだが、完璧な客観性など存在し得ないことは言うまでもない。とはいえ、だからといって個人の好き嫌いだけを語るようであれば、アマチュア・趣味的な感想であると受け取られてしまい、批評や評論という言葉に期待されるプロフェッショナル・職業的なものからは遠ざかってしまう。

 そして、音楽評論家に支払われる原稿料の出どころも悩ましい問題だ。評論される対象側(主催者たる音楽事務所、ホール、オーケストラ等)から直接的に原稿依頼されたり、評論される対象側が広告費を出して出稿している媒体から間接的に原稿依頼をされたりした際に、悪い点をはっきりと書くことはどうしても難しくなる。

 そうした原稿を引き受けないという潔い考えも頭をよぎるが、それで書き手として生計を立てていくのは限りなく難しいだろう(……副業として音楽評論家になるのでない限りは)。仕事として批評的な音楽評論はしない……というスタンスの書き手も一定数存在する。

 こうした複数の要因が重なっていったからだろうか、若い音楽の書き手が「音楽評論家」という肩書を名乗ることが少なくなったということは注目に値するし、その代わりとして「音楽ライター」と名乗る人々が増えているように感じるのも、決して気のせいではないだろう。読み手だけでなく、今後を担う若い書き手からも「音楽評論家」は見放されつつあるというわけだ。

――音楽評論がポジティブな役割を担うために

 では、音楽評論(コンサートやディスクのレビュー等)を行なう際、現実に即しながらも、評論対象におべっか的にへつらわず、読み手の信頼も失わないためにはどうするべきなのだろうか。僭越ながら私自身が実際に仕事で執筆した「22歳で日本中を魅了するピアニスト反田恭平~全国横断ツアー初日レポート」を例にして、考えていこう。

 (どの程度予習が必要かは個人差があるので、さておくとして……)コンサートレビュー(演奏会評)であるため、まずは兎にも角にも演奏を実際に聴く必要がある。その際に感じたことをそのまま書くのが、素朴な音楽評のあり方だ。それもひとつのあり方ではあるが、広報目的の記事の場合はそうはいかない。では、どうするかといえば、どういう角度や視点で聴けば、評論対象が一番面白く聴けるのかを考えるのだ。何故それが成り立つかといえば、絶対的な尺度による聴き方など存在しないからである。

 聴き手は受動的に音楽を受け取るのではなく、その音楽を能動的に解釈(≒脱コード化 decording)しながら聴いている。そうした解釈のうちのどれかが正解であるという絶対的な視点は存在しない。でも、そうした異なる解釈に差異がないかといえば、もちろんそれも違う。解釈の正しさを担保することは出来なくとも、その解釈次第によってその評論対象が面白く聴けるかどうかの違いは大きい

 そして、評論対象に対しての専門性が高くない聴衆は、自らの主観に基づいたひとつの視点しか持つことができないであろう(※その対象物が録音物となっていれば、繰り返し聴くことによって複数の視点を持てるようになるかもしれないが)。だが、専門性の高い能力を持っていれば、複数の視点を検討しながら聴くことが出来るはずなのだ[註2]。

 今回、例として挙げた反田恭平さんのコンサートの場合であれば、演奏会中のリアルタイムでは私にとって心に響いた演奏とそうではない演奏の両方があった(言うまでもなく、それはどんな演奏会でも起こる普通のことである)。演奏の合間や終了後に、心に響いた演奏とそうではない演奏の両方について、その理由を自問自答して考えてゆく。その際には今回の反田さんの例でいえば、この動画の一言が大きなヒントとなった。

 1:12ぐらいからの「絵画的ですごく素晴らしい」という発言から、反田さんが純粋にエチュード(練習曲)として「ショパン:12の練習曲集, Op. 10」を捉えているわけでないことが推測できる。そして、その発想は他の作品の演奏でも貫かれていたことに気づき、「絵画性≒幻想性≒物語性」といった視点で今回の演奏を捉えるのが、(現状思いつく中での)最善であろうと自分のなかで腑に落ちたわけだ。その結果が「22歳で日本中を魅了するピアニスト反田恭平~全国横断ツアー初日レポート」である。

 こうすることにより、前述した

 )評論が独断と偏見によるもので、主観に偏り過ぎている
 )レコード会社や音楽事務所などの提灯持ちに成り下がっており、評論が信用出来ない

この2つの問題点に絡め取られることなく音楽評論に取り組めるのだ。1)については、執筆の前段階で複数の視点を検討することにより、著しい主観性の強さという印象を排除することができ、2)については、自分の感性と折り合いが悪いものでも、良心の呵責と葛藤をする必要がなくなるのだから。[註3]

[脚註]

註1:もちろん、試験やコンクールでも実態はそうでないと批判されることも多いのだが、あくまでも理念としては出来るだけ客観的であることを求められることが殆どだろう。

註2:加えて、もっと突っ込んだことを言えば、前述したような角度や視点だけでなく、評論対象の範囲をどう捉えるかにも書き手は意識的になるべきであろう。そのイメージを図示してみるならば、次のようになる。

聴き手Aを仮に「演奏家と作曲家・作品」を評論の範囲にしているものだとするならば、聴き手Bはそれより狭く、ほぼ「演奏家」だけを扱う場合もあるだろうし、反対に聴き手Cのように「演奏家と作曲家・作品」に加えて「音楽には直接関係のない演奏家のパーソナリティ」まで評論の対象に含む場合もあるだろう。はたまた、聴き手Dのように、他の評論も視野にいれて語ることも出来るであろう。繰り返すが、どれが正解というわけではなく、その案件に見合うなかで一番面白く聴けると思う視点を提供することが大事なのだ。

註3:こうした視座にたどり着くまでに、ハンス・ゲオルク・ガダマーの解釈学に大きな影響を受けている。ガダマーの解釈学については、こちらのページのキーワードをお読みいただくのが一番簡便な入門になるかと思う。

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