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10月7日に亡くなった、日本を代表する作曲家・一柳慧の業績を振り返る。

 2022年10月8日の午後、大手メディアは一斉に、一柳慧(いちやなぎ・とし)が89歳でこの世を去ったことを報じた。

 一柳は2018年に文化勲章を受章しているが、1937年に始まる歴史の長い勲章であるにもかかわらず、実は作曲家としては歴代で3人目。それだけでも稀有な存在であることは伝わるだろうか?

 新型コロナによるパンデミックが起こるまでは、80代とは思えぬほど精力的に活動しており、現代音楽の演奏会などでも度々お元気な姿をみせていたし、パンデミック後もお見かけする機会が減ったとはいえ、関係者からは「○月には電話して変わらぬ様子だったのに……」という悲しみの投稿がみられた。

 追悼の意味で、わたし小室が昨年2〜3月に開催された「一柳慧神奈川芸術文化財団芸術総監督就任20周年記念:Toshi伝説」のプログラムに寄稿した「一柳慧再入門 ~なぜ一柳慧は交響曲を書くのか?」という小論(コラム?)に、実際に作品が聴けるリンクを追加して公開する。

 前述した報道や、一柳を手短に紹介する文章では、どうしても前半生にばかり比重が置かれがちなのだが、下記の小論では一柳自身にとっては近作まで一貫したスタンスがとられていることを指摘させていただいた。今後の作品理解や受容の一助となれば幸いである。(なおアイキャッチにもなっている写真は、小室が取材時に撮影させていただいたものだ。)


一柳慧再入門 ~なぜ一柳慧は交響曲を書くのか?

 2020年、87歳で初演された第11番「φύσις」(ピュシスと読み、ギリシャ語で「自然」の意)に至るまで、室内交響曲と伶楽交響曲を含めると計14曲の交響曲を手がけてきた一柳だが、彼が交響曲と題された作品を手掛けるようになったのは1986年、年齢にして53歳以降のことだ。53歳といえばベートーヴェンが「第九」を初演した年齢であり、シンフォニスト(交響曲作曲家)として遅咲きだったブラームスでさえ43歳で交響曲第1番を完成させている。10曲以上も手がけている現代を代表するシンフォニストでありながら、デビューは53歳と極めて遅かった一柳のキャリアを振り返り、作風の変遷を整理してみよう。

 ケージに師事したという経歴ばかりが強調されがちだが、一柳はこれまで数多くの音楽家から指導および刺激を受けてきた。父・一柳信二がパリで学んだチェリストだったからであろう、一柳が留学前に習ったのはピアニストの宅孝二や原智恵子、作曲家の平尾貴四男や池内友次郎……というフランス帰りの面々であった。ところが、徹底して職人技術を重視する池内の教育方針は「音楽における社会性のようなことは皆無の方だった」と後に語っているほど、若き日の一柳にとって受け入れ難いものだった(そして池内の意に沿うことなく「まったく好きなように」書いた作品によって、日本音楽コンクールの作曲部門において1位・2位・1位を3年連続で獲得してしまう!)。

 当初は池内に師事して藝大受験を考えていたはずだったのだが、こうして留学を決意。父が留学したフランスは調整がつかず、母・一柳光子がピアノを学んだアメリカに留学することになったのだが、これが吉と出る。というのもアメリカで指導を受けたヴィンセント・パーシケッティやアーロン・コープランドといった、フランスの名教師ナディア・ブーランジェの系譜に位置する作曲家と、一柳は相性が合わなかったからだ。

 代わりにアントン・ウェーベルンの弟子である、ドイツ出身のシュテファン・ヴォルペ(1902~72)に12音技法を習い、エリオット・カーター(1908~2012)に共感を寄せるようになったのだが、日本にいた頃から論理よりも感覚を大事にしていた一柳にとっては、この路線にもすぐに窮屈さを感じるようになってしまう。そんな頃合いの1957年に出会ったのが、論理に縛られることなく自由を追求し、自然と共生していたジョン・ケージ(1912~92)だった。

 そもそもケージもまた、アルノルト・シェーンベルク(=ウェーベルンの師)から徹底して職人的な作曲技術を指導されるも、そこから逃れることで個性を発揮したことを思えば、一柳が共鳴するのは決して突飛なことではなかったといえる。こうして50年代末~60年代にかけての一柳はケージの影響下のもと、図形楽譜を駆使した偶然性・不確定性の音楽、フルクサス的なパフォーマンスを取り入れた作品を手掛けるようになった。

 61年に日本へ帰国していた一柳だが、66年にロックフェラー財団の招聘で1年間ほど再渡米した際に、再び大きな転機が訪れた。スティーヴ・ライヒ(1936~ )による《ピアノ・フェイズ》との出会いである。五線譜で構成された作品でありながらも、全く新しい自由な発想で作曲することが出来るのではないかと考えるようになり、加えて社会から隔絶した「閉ざされた芸術」に危機感を覚えるようになっていったことで、1972年に《ピアノメディア》が作曲された。この作品以後、反復音形が持ち込まれるようになり、いよいよ交響曲創作へ繋がる新しいスタンスが徐々に打ち出されていく。

 第1に、図形楽譜やパフォーマンスといった実験的な要素が後退し、五線譜による記譜が中心となったこと。これにより、図形楽譜を解釈して即興的に演奏する特別なスキルや知識が必要ではなくなり、一柳作品に取り組める演奏家が増えていった。

 第2に、時間性と空間性の関係を追求し始めること。空間性への意識は60年代の作品においてもみられるが、70年代の作品で重要なのは音形の反復――特に複数のパートが異なる周期やテンポで不確定的に反復をすると、前へと進んでいく印象が薄らぐ。一柳がこの感覚を、「時間性」が弱まる代わりに「空間性」が強まっているのだと捉えたことだ。ここから時間(time)と空間(space)、そして風景(Scene)、記憶(reminiscence, memory)等といった一柳作品に頻出するキーワードが派生していった。

 第3に、(新しいスタンスというよりも、意外と見落とされがちな点として)先述した「複数のパートが異なる周期やテンポで不確定的に反復をすること」は一柳にとって、ケージから学んだ自然と自由を大事にする思想を受け継いでいるということ。一柳自身の言葉を引用すれば「自然というのは、まったく自由。人間のような意思があって動いているんじゃなくて、たくさんの生き物とか植物が混ざり合って、自分が生きたいように生きている。そういう自由さが大事」であるという。一柳はこの思想を、60年代までは図形楽譜による作品の同時演奏などによって、そして70年代以降は「複数のパートが異なる周期やテンポで不確定的に反復をすること」により、一貫して表現し続けているのである。

 70年代にはこれら3つのスタンスをもとに、社会との接点を探った多数の器楽・室内楽作品が手がけられていき、その延長線上にやっとオーケストラ作品が生まれることになる。まず書かれたのは、独奏者を伴う協奏曲的な作品だ。例えば、打楽器とピアノのための《時間の反映》(※のちに作品リストから撤回)から《光の反映》が、ヴァイオリンとピアノのための《シーンズ》シリーズ(※Ⅲだけはヴァイオリンの無伴奏)から《循環する風景》が……といったように室内楽での実践が、そのままオーケストラに拡大・拡張されていくという発想の作品も多かった。特に1983年に書かれた《循環する風景》について、「ヴァイオリン協奏曲でありながら、同時に、ヴァイオリン独奏付き交響曲のような性格を有している」と一柳自身が語っているように、もうこの頃には交響曲を作曲する素地が整っていたとみていいだろう。

 最初の交響曲となったのはパリで初演された1986年の室内交響曲《タイム・カレント》で、その後には1987年と89年に2つの伶楽交響曲も続いていくのだが、一柳の代表作となったのは1988年のソプラノとテノールの独唱を伴う交響曲《ベルリン連詩》だった。大岡信ら、日独4名の詩人による連詩(ルールに則って共同制作された詩)から、新たな作曲のアイディアを得るだけでなく、自らの創作と共鳴する「不確定」的な創作過程や「時間」「空間」といった要素を見出し、「複数のパートが異なる周期やテンポで不確定的に反復をすること」をオーケストラに適応している。

 ただし、ここでひとつ問題となるのが、オーケストラで不確定的な反復を取り入れると、この手法の創始者とされることの多いヴィトルト・ルトスワフスキの諸作や、その影響を受けた武満徹の《アステリズム》等と同じような演奏をされたり、聴かれたりされがちだということ。一柳にとっては、混じり合った結果の音響よりも、個々のパートが自立して存在感を発揮する方が大事であり、そこにこそ彼の独自性があるのだ……ということは、ここまで創作遍歴を追っていれば明らかであろう。

 そして、様々な要素が独立したまま混じり合うという考え方そのものが、実は彼にとっての交響曲という概念とも直結している。一柳は「音、響きがいろいろ交じり合うという、日本語に訳したときのオリジナルな言葉として〔交響曲を〕使っているんですよ。そこには先ほど言った自由な要素とかも入れられるんですね」と語っているように、五線譜の場合と同様に、一柳にとっては交響曲も単純な過去への回帰ではなく、過去を読み直すことで新たな価値を提示しようとしていることが読み取れるだろう。

 その後の一柳は、1993年に室内交響曲第2番《アンダーカレント》(※97年に編成を大きくした交響曲第2番《アンダーカレント》に編曲)から、2001年の交響曲第6番《いまから百年のちに A Hundred Years From Now》まで作品のテーマやオーケストラの規模や編成を変えながら、「音、響きがいろいろ交じり合う」という意味での交響曲を創作していく。いずれの作品も単一楽章もしくは2楽章制を採用しているのは、伝統的な4楽章制・3楽章制は意識的に避けていたからだろう。

 様子が変わってくるのは、指揮者・岩城宏之の追憶に捧げられた2007年の交響曲第7番《イシカワ・パラフレーズ》以降のこと。単一楽章でありながら、内部は緩・急・緩・急という4つのセクションで分けられ、前半の緩・急が日本的な4拍子、後半の緩・急が西欧的な3拍子で書かれているのだ。事実上の2楽章制もしくは4楽章制と受け取れる。そして、「音、響きがいろいろ交じり合う」というよりも「音、響きがいろいろ(同時に重なるのではなく)併置される」ことが主になり、テクスチュアが簡素化されていくのだ。

 また第7番は、能登地方固有の自然・文化・歴史に目を向け、地震の跡も創作のインスピレーションになったというが、奇しくもそのあとに続く交響曲第8番《リヴェレイション2011》(室内管弦楽版2011年/管弦楽版2012年)と、交響曲第9番《ディアスポラ》(2014)は、2011年の東日本大震災(および原発事故)が主たるテーマとなり、そこに1945年の原爆投下の記憶が重ね合わされていく。両曲とも緩・急・緩・急の4楽章で構成されていることからも、第7番との連続性は明らかだ。

 岩城宏之の没後10年にあわせて書かれた2016年の交響曲第10番《さまざまな想い出の中に Scenes of Various Memories》は、第7番と姉妹作であると同時に、今度は能登ではなく岩城の肖像をパラフレーズしたものだろうか? そして2020年の最新作、交響曲第11番《φύσις》は本稿冒頭で触れた通り、自然がテーマとなっている。ギリシャ語を選んだのは人類史的な規模感で自然を捉え直しているからであろう。

 こうして交響曲創作を眺め返してみれば、第6番までは現在(current, now)を通して未来を思考するような作品が多かった(例外となるのが、12音技法と向き合い直した第4番《甦る記憶の彼方へ》)。一方、第7番以降の交響曲は、実体験した過去や記録を通して学んだ歴史と向き合うことで、警鐘を鳴らしたり、あるべき未来を示そうとしているようだ。第11番の曲目解説を、一柳は「未知な矛盾や不条理な世界を、調和に富んだ音によって少しでも回復できるようにするには何が可能だろうか。11番の問いは、まだ先へ続く」と締め括っている。まだまだ、交響曲創作の道のりは続くのだ。


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