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〈自分〉と写真

海の中へと続く階段が好きだった。元の写真はこんな感じの場所

年に数回、防波堤から覗き込むと無数の小魚の群れが次々に現れては泳ぎ去り、途切れることのない巨大な保育園の様相を呈する日々が数日間続く。
 犬の散歩の途中だというのに目を奪われて立ち止まる私達に呆れて、時折申し訳無さそうにリードを引っ張って散歩の続きを促す犬を宥めて、それでも自然の圧倒的な豊かさ見とれていた。

「海の中は季節が反対だからこれから春なんだよ」
「こんなにいても大人になれるのは一握りの厳しい世界なんだよな」
とポツリと彼が語っていた。

もちろんそんな穏やかな場所は大物が寝床に選ぶ日もあり、釣り好きの彼が「年無しのチヌ」と呼ぶ5~60cmを超えるクロダイが微妙に体を斜めに倒して口をぽかんと開けて寝ていたりする。ゆえに彼にとって憧れのカッコイイ〈トシナシ〉は、私にはちょっとアホっぽい魚と認識している。

写真

 楽しいから写真を撮る。気持ち優先で写真を撮りまくる。しかし相手は動く魚。しかも場所は海の中。当然マトモに映らない。スマホは彼の意向を無視して必死に海面にピントを合わせようとする。

結果、〈何を撮ったのかわからない海面の写真〉が溢れるのだが、ズボラな私にズボラ認定されるレベルの彼が写真を整理する訳もなく放置プレイ。

 大切な時間が詰まった写真だのだが、衝撃的なニュースを目にした。
12月1日から「使われていないGoogleアカウント」削除が始まる
基本的に犬の散歩に出かけている時なので、私の両手は犬のリードとお散歩バックで塞がっているので、お宝の写真はすべて彼のアカウントで保存されている。

終わったな。詰んだ。と思い鼓動がドキドキと早まったが、パニック発作のような息苦しさにまで進まなかった事を冷静に認める自分もいた。
まぁ、2週間以上前の記事を引用してコレを書いている時点で引きずってはいるのだけれども。。。

自分

 自分らしいとか、素のままの自分とか言うアレである。
死別してから自分の考えがひっくり返ることがたくさんある。大げさでなくあの日から天変地異なのだから。

〈ありのままの私を受け入れてくれる彼〉
だと、さっきまで思っていた。---すると、今の私はありのままの自分なのだろうか?〈自分〉だと認識していたものが、あの日1/2に減った。鋼の錬金術師の言うところの「持っていかれた」という感覚だ。
 新しい生活を初めて、時間も経過し50%に減った私は70%に戻したのかもしれないが、欠けている部分は相変わらずにある。

そこで認識がひっくり返った。オリジナルな私に彼がプラスされて初めて〈ありのままの私〉が出来上がっていたのだと。
 無意識に抑え込んでいる気持ちを取り払い、彼がいることで満たされて、初めて完成された幸せな〈自分〉が出来上がっていたのだと。

 あ~、人は一人では生きていけないってこうゆう事だったのか。と改めて思った。かといって、それを学べたからとてため息しか出ない。美学的には遺影に手を合わせて「お陰で学べました。ありがとう」という流れかもしれないけれど、顔を見ても言いたい事は唯一つ。「君に置いていかれるとは思わなかったよ」であって、更にはその顔が削除される危機に瀕しているのだよ!というのが現状の私の気持ち。


業務連絡

 全力の駄々っ子の言い分なのだが、〈君の写真〉は、君の写真なのであって、断じて遺影とは呼ばない。断じて遺影ではない。
 たぶん家族に優しい君は「お袋が喜ぶから実家に遊びに行ってやって」と思っているだろうし、私の気持ちも考えて思い悩んでいるのだろうけれど、仏壇に君の写真がある家なんて、とんでもなく敷居が高い、ハードルも高い異世界ゾーンなんだけれど....。ちょっと考える時間が欲しいレベルじゃなくて、放置する時間が欲しい案件なので、この件は放置の方向で。  以上


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