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死別後シンドローム 2

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死別後シンドローム 大切な人を亡くしたあとの心と体の病い
                 精神科医 清水加奈子  自治通信社

第1章 始まらない喪、明けない喪
第2章 死別後シンドローム ー喪の悲しみが病いになるー
第3章 こんなとき・こんな人が要注意
第4章 死別後シンドロームで苦しまないために
    1.大切な人との別れ際に際して
    2.死別後シンドロームから立ち直るために
    3.周りにいる私たちにできること
第5章 死別後シンドロームから抜け出すために
    1.どのようなときに精神科に行くべきか
    2.死別後シンドロームで試みられている心理療法

死別後シンドローム 目次



第3章より

〈過去の癒えない傷〉
喪という期間は、死に別れでかけがえのない人との「つながり」を失い、自分の前に現れた暗闇を前に、新たな「つながり」を再生させる時期である。そのとき、自分自身をつくってきた基盤ともいえるこれまでの人間関係が、強烈に浮かび上がってくるのである。

死別後シンドローム P165

第4章より

苦しみにはまっていかないために
・別れの前にできること
   ・相手の思いを確認しておく
   ・介護で自分を見失わない
・別れのあとにできること
   ・亡くなった人の肌に触れ、お別れを告げる
   ・我慢せずに泣く
   ・想像の力を大切にする
・「移り変わりの時期」にできること
   ・休みを意識的に取る
   ・繰り返し悲しみを感じる
   ・習慣の持つ力に支えてもらう
   ・喪のプロセスを知っておく

死別後シンドローム P181

 上記の引用は本書では表にまとめられており、解説やら事例を交えて説明されているのだが、〈相手の思いを確認しておく〉という一文の意味の中には生きているうちに、もっとツッコんで言えばコミュニケーションが取れるうちにお別れの言葉を交わしておくのが大事だと書かれている。

 彼は突然死(何らかの病気によって、発症から24時間以内に死亡)だったので介護はしていないのだが、これも「あの時にこうしておけばよかった」というのは自分を見失ったためではなく、死別したから杭が残っている=杭になってしまっただけで、死別しなければ「あの時にこうしておけばよかった」も何も無いのだと思う。

 申し訳ないと思いつつも、共感したり同意したりという気持ちになれずに
そりゃそうだよねとしか思えなかった。

別れの後にできることの〈想像の力を大切にする〉の事例として亡くなった患者さんの姿を見たという看護師さんの「お礼を言いに来てくれたんだよね」というエピソード、東日本大震災で大切な人を失ってしまった人たちのための旧式の黒電話の電話ボックスのエピソードなどが紹介されている。

 これもまた自分一人で向き合うには難しいことがあって、〈彼ならこうする/彼ならこう言う〉という基準で自分を保って来たつもりが、自分を騙し奮い立たせていたつもりで追い込んでしまっていたり、両刃の剣の危うさがある。要するに自分と同じ基準で亡き彼を愛おしみ、同じ嘆きを共有できる相手と話をする存在が必要な訳で、〈患者対看護師たち〉〈大震災の被災者の遺族〉という複数の集団があるから成立するような気がする。

習慣の持つ力に支えてもらう〉については、仕事や趣味、仏壇に挨拶したりヨガやら瞑想も含めて、生活のリズムを作り....、というものなのだが...。

と、ここまで書いてきた部分が本書の第4章の1までである。引用部分が多すぎると問題があるので、以下バランスをとるために自分語りです。



自分語り

 本書にはアダルトチルドレンとか愛着障害という言葉は書かれていないし、私自身もそれらの言葉を確実に理解しているとは言えないけれども、そのあたりについて第3章で触れられている。

 人はだれも自分の親以外に「親」というものを知らない。私の親であっても世間様からすれば「いい親」である外面を持っている。

 私が40歳を過ぎた頃、父と怒鳴り合いの喧嘩になったときに私は
「私の自慢はまだ誰も殺していないことだ」と怒鳴り、その時父は私の内面を知った。「知らなかった。ごめん」と、ただそれだけ言っただけだったが、父に謝れたのは意外だったし、私の中では和解できたのだと思う。
 長野を離れる時にも「どこに行っても
お前は俺の娘だ」と言ってくれたし、帰省したときには初対面の彼に頭を下げて「娘を宜しく」と言っていた。

 ちょうどその頃、親もまた兄と揉めて私の実家は一家離散している。その中で母が私を気にかける振りしてコンタクトを取ってくるが、心配しているのは私ではなく、仏壇とお墓の将来であって墓守の娘が欲しいのは察しがつく。母から「ごめんねぇ~。知らなかったのよ」と猫なで声で謝られたこともあったが、受け入れるどころかムカついただけだった。

 短大を卒業し、自宅から半年と少し通勤した後に私は一人暮らしを始めた。3年程経過して自宅で動けなくなった私は病院に連れて行ってくれと電話したのだが、その間に親から電話は無かった。25で結婚する時に挨拶に行くまでも、なんの音沙汰も無かった。そうゆうものだとすら思っていたのでちょっとした用事で電話がかかってきて長電話をする彼の周囲に違和感すら覚えた。どっちが普通かという話ではなくて、千差万別という意味で。

私の中の癒えない傷

 母が死ぬまであと何回顔を合わせるのかはわからないが、和解はないと思うし、それを自分が望んでいるとも思えない。

 母の子育ての決り文句は〈大人の顔色を伺うような子に育ててはいけない〉〈三つ子の魂百まで〉はすべて反面教師となり見事に私にあてはまる。

 物心ついてから家を出るまで、私は兄と母に叩かれないように生活をするのが基本だった。兄に叩かれ泣くと「叩かれるようなことをするのがいけない」で今度は母から叩かれる。食事の時間は説教タイムである。

そもそも兄に貸した小遣いを返してくれないと抗議して叩かれ泣かされも「返してくれない人に貸したお前が悪い」と叩かれるレベルで、返さない兄は説教すらされないので、正しいことよりも大事なのは顔色を伺うことで、
「お前は自分が悪くても謝らない」と繰り返し言われたが、何が悪いのかいまだにわからないままだ。

三つ子の魂百まで。バカみたいな普通の事に罪悪感を植え付けられているのを感じる。流行歌を聞くのもライブに行くのも下着を干すのも一緒にお風呂に入るのも罪悪感で苦しくなる。
 下着を1枚干すのにタオルに挟んで干すので、洗う下着の枚数だけタオルがいる。人から判らないように下着を干すのもシンドイし、かといってウルセーとばかりに逆らって普通に干してしまうのも罪悪感でシンドイ。

幼少期から「お前は嫁に行ってこの家を出る人間だ」「どこの馬の骨かわからない所に嫁に行ってもらっても困る」「行かず後家になるのも困るが出戻りも困る」と日々言われて育った小学生がどれだけいるのだろう。

次回に続く


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