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死別後シンドローム 3

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 ここからは後半の「立ち直るために」という部分に突入するのだけれど、
例のごとくストレートな表現から始まる。

死別後シンドロームでは、亡くなった人と私たちとの立場が逆転している。
主客が転倒してしまっていて、亡くなった人がなによりも大切であり、恐れ多いものとなっているのだ。立ち直るということは、生きる上で、自分にまず中心軸を移し、大切だった亡き人との関係を見直す作業である。
 本題に入る前一点、注意しておきたい。死別後シンドロームになっていく人には、大きく分けて二種類ある。「悲しみに気づけない人」(始まらない喪)と「悲しみから抜け出せない人」(明けない喪)だ。

死別後シンドローム P203

〈始まらない喪〉については第一章で母を亡くした男性が仕事に没頭するように生活していたのだが、社長の母の訃報に触れたことがきっかけでうつ症状が始まって受診したエピソードが紹介されている。
〈明けない喪〉についてもストレートに突き刺さる説明がある。

「悲しみから抜け出せない人」の中には、状況として周りとの「つながり」が少なく、孤立感から悲しみがさらに深まる人たちと、もともと「つながり」を求める力や「つながる」力が弱い人たちがいる。

死別後シンドローム P203

目からうろこ

 つながりを求める力/つながる力とは何ぞ?この言葉に引っかかっている時点で、私には無い物だという事なのだろうけれど本書には説明がない。
つながり力でググると本もいろいろ出ている。知らなんだ...!

 余談になるけれど、つながり力というものがあるのなら彼はエキスパートかも知れない。自社製品をHPで販売していたので新規のお客さんからも当然注文が入る。どうゆうスイッチが入るのか「俺の商品どこで知ったんだろう?」と言い出すといきなりメールで注文のお礼とともに何処で知ったのか尋ねる。いきなり電話したりもする。人見知りというかコミュ障の私からしたら〈ネットでサクッと買物したい人かも知れないのにメールするか?〉という驚きの行為なのだが、本人は気にもせず迷惑がられたら謝ればOK位に思っているのだろう。
 しかし、大抵は仲良くなってメル友みたいな関係になったり長電話する関係になったりしていたのである。---その後、私の「長電話の時って大抵は売上に反映されないよね」という台詞に集約されるのだけれども。

昔ながらの葬儀

 本書で何度か大切な物だったと書かれているのが、昔ながらのコンパクトでは無い葬儀。地域の人やら故人を知る多くの人に囲まれるお葬式が、大切な人を亡くした人にとって〈皆の前でお別れを宣言〉することになり〈想いを一緒にする人たちのぬくもりに触れる〉ことで死別後シンドロームになりにくいと紹介されている。

 これはどうなのだろう。彼が亡くなったのは新型コロナウイルスの蔓延防止法が解除されるタイミングであったが葬儀は地元で行われたので仕事関連では一部の人の参列で、ましてや私は参列していない。
 そんな中でもお仏壇もない工場にお別れに来てくださった方々がいらっしゃる。それだけ関係が深かったと言えばそうなのだが、逆に言えば何でも言える間柄ゆえに心を抉る一言も出る。
--- 予兆がなかったんだろうか?
--- 我慢していたんだろうな。
〈一緒に暮らしていたんだから気づけよな〉という直球である。

 また、〈夫と妻〉あるいは〈彼と彼女〉という1対1の関係=私だけの彼だった人だったのが急に〈喪主側と他人〉という括りに分別されて「もうアナタだけの彼ではないんだよ」と突きつけられる気分がしてしまっている。
 たぶん、結婚していたとしても彼の親御さんが存命なので妻という1対1の関係を守りたくても、家という勢力で押されてきたらひとたまりもないだろう。この1対1の関係の喪失は私の中ではかなり痛手になっているのだが、本書では触れられていない。


本書の目次

第4章 死別後シンドロームで苦しまないために
 2 死別後シンドロームから立ち直るために
    湧き上がる感情を大切にする
    助けを求めてみる
    亡くなった人との新たな関係づくり
    新たな自分を生きるために
    繰り返す「再会」と「別れ」
3 周りにいる私たちにできること
    亡くなったときにできること
    悲しみが長引いている人にできること

死別後シンドローム 目次

今回は「湧き上がる感情を大切にする」の部分のみである。

湧き上がる感情を大切にする

 この項は以下で構成されている。

  1. 自分がどう感じているか意識する ※1

  2. 言えることは癒えること ※2

  3. 自分の悲しみに寄り添う -音の力-

  4. 誰かの表現に思いを寄せる

  5. 怒りを無視しない

(以下ザックリ概略)周囲の人や社会生活する上で気を使って隠したり抑え込んでいる、悲しみや怒りなどのマイナスな感情も「つながり」の一部なので、その気持ちに気付く(※1)。そして気持ちがわかったなら、それを表現する。(※2)書いてみたり、自助グループなどで話を聞いてもらったり。

一見感情をストレートに怒り/過食/ショッピングなどで発散している風でも癒やしに繋がっていない事がある。
 言葉にして表現することで「そうだったのか」と腑に落ちる感覚が癒やしをもたらす。
 更に暗闇が深い場合にはカウンセラーや精神科の受診が必要になる。


自分の悲しみに寄り添う -音の力-


本書のままに引用する

 感情の中でも、悲しみを感じることはとくに重要である。涙とともに大きな癒やしの力を持っているからである。不安、怖れ、後悔、怒り、自分を責める思い、そういった感情に飲まれそうなとき、悲しみは自分を見失うことから救ってくれる。亡くなった人への悲しみは、たとえ苦しくとも、一緒に過ごした思い出でわずかながら心を和らげてくれるし、自分が今、自分が今、喪のプロセスにあるのだということ、つまり、亡くなった人との「つながり」を意識させてくれる。

死別後シンドローム P207

 情けないことに私の読解力足りず、この部分の意味がわからない。
〈悲しみ vs 不安、怖れ、後悔、怒り、自分を責める思い〉---こう読み取れるのだけど....。

例えば、夕飯の用意している時にトマトが綺麗に切れなかった。
スタート〈寂しい〉いつも包丁しっかり研いでいてくれたもんね...。
  → 〈後悔〉私がもっと健康を気遣ってあげていれば
  → 〈自分を責める思い〉喧嘩を回避して強く言わなかったから

スタートの〈寂しい〉と〈悲しい〉に置き換えてみても、一緒に過ごした思い出でわずかながら心を和らげてくれるしの部分が見当たらない。もしかしたら、いつも包丁しっかり研いでいてくれたもんね...。の部分でわずかながらの癒やしを感じなければいけないのだろうか。
 ぶっちゃけ、思い出して苦しくなる部分であって、フラッシュバックの苦しさと癒やしは表裏一体の代物なのだろうか?

 批判する気もないし、ましてや評論する気もないので、素直な私の気持ちとして、フラッシュバックした〈一緒に過ごした思い出〉で苦しくならずにわずかながらの癒やしを感じられたら、すでに立ち直りつつあるのではないだろうか?というか...、ソコに到達するのが今の私の理想。

誰かの表現に思いを寄せる

行き場の失っった感情を表現することは癒やしに繋がっていく。

死別後シンドローム P209

 書く、歌う、泣く、ブログ、絵、記念碑、手記なんでもいい。またそのような気持ちの作品にふれる事もいい。

怒りを無視しない

 人の死という不条理な出来事では、状況によっては強い怒りが出てくる。しかし、その怒りに向き合わず、無視しているケースを、死別後シンドロームの人の中で時折見かけることがある。常に何かイライラしている、怒りっぽくなっている、人につらく当たる、なにに対してもやる気がなくなる、などはそのサインである。
 その怒りを掘り下げていくと、なぜあの人が亡くなったのか、なぜ私だけがこのような不運を背負わねばならないのかという運命に対する怒り、なぜ先に亡くなってしまったのかという亡くなった人への怒り、さらには亡くなった人に関わっていた人への怒り、夫への怒り、妻への怒り、医療への怒りといった問題が出てくるかもしれない。

死別後シンドローム P210

感情をまず大切にし、自分の気持がどこから出てきているのか意識した上で、怒りの現実的な解決策を考えるといいだろう。
 しつこい怒りと向き合い始めると、心の奥に眠る悲しみの蓋が開かれ、本来の涙が出てくるころがある。----(略)

死別後シンドローム P212

 という記載で、ここではどうすれば良いという答えはない。まぁ、そもそもどうすればいいのか、どうにもならない事で思いつめているのだから、泣いて癒えるのを待つというスタンスか、専門家の助けを得るかということはわかっているのだけれども。


すでに3600文字という無駄に長くなってしまったので、以下引用のバランス調整の自分語り

自分語り

 夢なのか考え事をしているのかわからない夜だった。ベッドで横になり頭の中で話が進んでいくのを映画を観ているように客観視していながらも、その中に自分も登場している。

寝る前に考えていたこと

 人生とは〈運動会のリレーみたいだな〉と思っていた。基本的に苦しい思いをしながら、家族/パートナーと出会いパワーに変えて笑顔を手に入れて走り続ける。
 ある時、唐突に神だか死神だかが先生のように現れて、走るのを止めさせてトラックの中央に設けられた〈走り終わった人のスペース〉に連れて行き
休憩させつつも仲間を応援する役目にさせる。
 グラウンドの真ん中で体育座りをしている彼は、走ってきたじぶんを振り返り「幸せだったな」と満足しながら、もう走る苦しみからも開放させてリラックスした気分で残りいつまで走るともわからない私を応援している。

 当然、悪態をつきたい私の気持ちもあるわけで、君が居なくなったからこんなに苦しい思いをしているのに、君はその苦しみを眺めて応援しているけど、笑顔でいられるんだね。と、醒めてしまって感謝できない自分を振り払いながら落ち込む。

その後のたぶん夢

 昨日、私が目を閉じた世界(瞼の裏)は、青い光と緑の光しかなく、ホログラムやオーロラのように揺れ動く一面の光だった。---愚痴ってもしょうがないのだけれども、こんなもの見えていたら寝られないだろう!と毎回思いながら寝落ちしている。

たぶん、森の中の池の畔にいた。ネットで画像を拾って色を変えて似せてみたけど、こんな場所にいた。

翼を広げた天使がいて、何故か翼のお手入れ係をしていた。水鏡には同じ世界が写っているのに、そこは行くことができない別の世界だった。
 翼はジグゾーパズルのようになっていて、その日のお手入れを済ませるとピースが1つだけ埋まる。まるで、人生の1日1日を埋めていくかのような地道な作業だった。
 そんな夢だか考え事だかわからない現実世界にいる私は「自分の羽だろう!自分でお手入れすればいいじゃん」とツッコミを入れつつもその世界を観察している。

 何よりも驚きなのは、私が紡いでいる羽は自分の人生ではない点。私が紡いだ1日分のピースは、私の1日に関わった多くの人たちで構成されていてその人の1日となる。私の善行だか悪行の反省やらの1日というものは、誰かの今日の1ピースになって紡がれて保管されていくのだが、それが何処にあるのかはわからないシステムだった。

何それ?そんな道徳的で宗教の教えのような事はどうでもいいんだよ!彼の夢見てないし!というか...、いい加減に寝たいんだけど!とイラつく心を感じながら見えている世界だけは美しかった。


感想文、今回で完結するかな?と思っていたのに数ページ分しか進まなかったので続く。

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