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私を 想って 第十八話
車が止まる音がした。時計を見ると、妙さんが帰ってから一時間も過ぎていた。お風呂の用意をしようと立ち上がり部屋から出る。ガラガラと玄関の戸が開く音が聞こえた。
すぐに戻るから、と涼花さんが言っていた言葉を思い出し玄関へ向かう。でもそこに涼花さんの姿はなく、代わりにずっと帰りを待ち望んでいた人が立っていた。
「……お父さん」
父を呼んだ声が震える。驚きのあまり、どうしたらいいのかわからなくて立ちすくむ。
玄関の薄暗い灯りに照らされた父の顔は、以前よりほっそりしていた。
「ただいま」
聞き慣れた穏やかな声が耳に届いた。
「……和さん、死んじゃったよ」
「ああ。知ってる。……涼花さんから連絡が来て急いで帰ってきた」
父は玄関の手前で立ったまま、中に入ってこようとしない。ただ私のことをじっと見つめている。
ずっと父に会いたかった。だけど、会いたくなかった。
記憶なんて思い出さなくていい。いっそのこと全部、なかったことにしてほしい。
「大丈夫か」
しばらく黙っていると、父が聞いてきた。
大丈夫、なわけないじゃん。
喉まで出かかってきた言葉を、「正臣さん」という涼花さんの声が遮る。
「帰ってきてくれたのね」
ひどく疲れた顔をした涼花さんが、お父さんの後ろから現れた。
「申し訳ないが、またすぐ戻ることになる」
「……そう」
涼花さんが静かにつぶやいて、目を伏せた。
ああ、きっと、涼花さんはもう全部知っているんだ。じゃあもう何を聞いてもいいんだ。体に力が入った。
「お父さん、仕事やめてるって聞いた。涼花さんも知ってたんですよね?」
ぐっと拳を握りしめる。皮膚に爪が食い込んで、じんじんと痛み出す。
涼花さんが困ったようにお父さんを見上げた。その仕草だけで、もう私には十分答えになっていた。
怒りとか、悲しみとか。ごちゃ混ぜになった感情をどうしたらいいのかわからなくて、二人の横をすり抜け外に飛び出そうとした。
父が私の腕をつかむ。その手を振り払おうとするが、父の力のほうが強い。
「鞠毛」と名前を呼ぶ父を強く睨み付けた。
「止めないでよ! 本当の、お父さんじゃないくせに」
蓋を閉めて押さえ込んでいた言葉が乱暴に口から出る。
そんなこと嘘だよって、もし、本当のことだとしても嘘だよ、って言って欲しかった。
もう一度、「全部忘れていい」そう言って欲しかった。
「……どうして……知っていたのか?」
腕をつかむ父の手がゆるんだ。
その瞬間思いっきり走り出した。はあはあと自分の呼吸音だけが耳に響く。
じゃあ、あの記憶は現実だったんだ。分かってた。分かっていたけど、あまりの衝撃にどうしていいのかわからない。途端に迷子になったみたいだった。
「あれ? 鞠毛?」
篤人の声がして我に返り立ち止まる。家に来る途中だったのだろう。無邪気に私のほうへ駆け寄ってこようとする篤人を無視して走り出す。行く当てなんてない。でも家にはいられなかった。
頬が濡れていくのを手で拭う。涙とともに、気持ちが全部溢れ出した。
嫌だった。父と涼花さんが隠し事をしていたことが嫌だった。うまく感情を扱えない自分のことも嫌だった。
暗闇の中で虫が鳴いている。その鳴き声と一緒に叫びたい衝動がこみ上げてきた。
「鞠毛!」
後ろから篤人の声が聞こえた。私のことを追いかけてきたのだ。ぐっと走るスピードを上げる。これ以上、篤人にみっともない姿を見せたくない。
このままどこかへ消えてしまいたかった。
「おい! 鞠毛!」
キキーッという車のブレーキ音とともに、篤人が私に追いつき腕を引っ張る。その勢いでよろけてしまい地面に転んだ。
「危ねえだろうが!!」
車の窓からおじさんが顔を出して叫ぶ。私は「すいません」と小さく謝る。
「怪我とか痛いところとかないか?」
篤人が心配そうに私を顔をのぞき込んできた。
「……大丈夫」
「よかった」
篤人がはーっと息を吐く。
「にしても、鞠毛って足速ぇ」
いつものように篤人が笑いかけてくれた。ふっと空気が和らぎ、よろよろと立ち上がった。
篤人の後ろから父と涼花さんが息を切らして駆けつけてくる。
「鞠毛」
そう、この声。
いつも聞いていた父の声は穏やかで低くてのんびりしていた。鞠毛って柔らかく呼ぶ声が大好きだった。
でも父はどう思っていたのだろう。本当の娘じゃない私を、どんな思いで育てていたのだろう。
父は黙ったまま私の目の前に立った。手に持った懐中電灯がゆらゆらと足下を照らしている。
「お父さん、今までどこにいたの? なんでいつもいなかったの? ……私が本当の子供じゃないから?」
私の問いかけに父は叱られた子供のような顔で「ごめんな」と言う。
「いつも秘密ばっかり。私はお父さんにとって必要ないんだよね。邪魔、なんだよね」
父の胸を叩いた。どん、という衝撃が手に響く。
「……生まれてこなきゃ良かった」
誰にも必要とされていない。ずっとそう思って生きてきた。だから私も誰かを必要としてはいけないんだと思った。好きになった人はみんな離れていくし、大切な人ほど傷つけてしまうから。
喉の奥が熱い。苦しくてこれ以上、声が出てこない。何度も何度も父の胸を叩く。私の泣き声が虫の声と重なっていく。父は何も言わない。
「オレは鞠毛が生まれてきて、良かったって思う」
いつもと変わらない篤人の声が耳に聞こえ、叩いている手の動きが止まる。
「ごめんな」
父が謝罪を繰り返す。その言葉を聞きながら、ぼんやりと父の姿を見つめた。
お父さん、こんなに小さかったっけ。
違う。私が大きくなったんだ。昔は届かなかった父の胸や肩に、今は簡単に手を伸ばすことができる。
手の力が抜け、ストンと下に落ちた。
「家に戻りましょう」
汗でべったりとした私の背中を涼花さんが優しくさすった。
父と涼花さん、そして篤人に囲まれて家に戻った。涼花さんがタオルをくれたので顔を拭くと少し呼吸が落ち着いた。
「オレもここにいていいですか?」
父と涼花さんの二人と向き合うのがつらかったので、篤人の申し出に頷いた。
篤人は今日のゴタゴタで私のことが心配になり様子を見に来たところだったらしい。
「冷えた麦茶、どうぞ」
涼花さんが用意してくれた麦茶が、リビングのテーブルに四つ並ぶ。
静まりかえった家の中に、時計のチッ、チッ、チッという音だけが鳴り響いていた。
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