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私を 想って 第十四話

 その後、涼花さんは和さんに気に入られて、無事結婚した。念願のハーブ園を作り、バイパス沿いの店舗を改築し、カフェをオープンさせた。その頃の仁史さんの体調は、順調過ぎるほど安定していた。このまま回復に向かうんじゃないかと錯覚するほどに。その反面、子宝には、なかなか恵まれなかった。仁史さんはカフェのこともアドバイスしてくれて、和さんには治療をしつつ自宅で仕事をしていると言ってあった。

「まわりからは、まだ子供できないのか、はやく和さんに孫の顔見せてあげなきゃ、とか……正直プレッシャーだったわ。仁史さんの病気が酷いことも隠していたから。そんな身体で子供を作ろうとしているってどう考えても普通じゃないわよね。でも私たちは、どうしても子供が欲しかったのよ」

 結婚して二年。やっと子宝に恵まれたと安堵したのもつかの間、仁史さんの体調が急激に悪化した。もはや在宅治療ではどうにもならない状況だった。
 今までの経験が頭の中から消えて欲しいと思った。仁史さんがこれからどうなっていくのか、誰よりも知っていたから。
 そして、慌ただしく入院を決めた。仁史さんはこんな身体になっても、涼花さん以外に病気のことを打ち明けなかった。
 その頃、すでに和さんは、認知症を罹っていたのだろう。でも、涼花さんは、仁史さんの身体のことやお店のことで頭がいっぱいだった。
 そのことが事態を悪化させた。突然入院した仁史さんを見て、和さんは、涼花さんが仁史さんに毒をもって病気にしたと思い込み襲いかかってきた。

「あの日は雨が降っていて、病院から帰ったらお義母さんがいなかったの。急いで探しに行ったわ。お義母さん、砂山さんの家の田んぼの前でぼんやりしていて。帰りましょうって声をかけたら、人殺しって大声で叫んで私を突き飛ばした。一瞬何が起こったかわからないまま気が遠くなって。気がついたら病院にいたの」

 涼花さんは表情のない顔でどこかを見つめている。ゆっくり立ち上がりカップをもったまま流しに向かった。

「お腹の赤ちゃんは、いなくなってた。すべてのことに実感が湧かないまま、本当に私のお腹に子供はいたのかなって。まだお腹も膨らんでいなかったから。私が入院中、砂山さんや妙さんが家に来てくれて、お義母さんは何事もなかったように過ごしていたみたい。だから私も何事もなかったように振る舞った。仁史さんにはちょっと怪我して、しばらく会いにこれなくてごめんなさいって伝えたの。仁史さんは、『いろいろと、本当にすまない』静かにそう言って、手を握ってくれた。仁史さんが息を引き取ったのは、その次の日だったわ」

 ザーザーと水が流れる音だけがリビングに響いている。

「仁史さんの葬儀のあと、生きていく気力がなくなっちゃって。ご近所さんはいい人ばかりだけれど、『子供がいて一人前だからね』『仁史君が亡くなったのは嫁さんのせいじゃないか』って少なからずそういった声は耳に入ってきたわ」

 涼花さんはカップを洗い終えると私の横に立った。
「どうして私はここにいるんだろう。仁史さんもいないのに。赤ちゃんも、いないのに。
鬼としか思えないお義母さんを殺して、自分も死のうと思った。寝ているお義母さんの首に手をかけたわ。なんにも怖くなかった。誰も私を必要としないし、生きている意味もない。ぎゅうっとゆっくり力をね、手に入れたの」

 涼花さんは、優しくの私の首を絞めるそぶりをした。首にあてた手は、ひんやりしていて少し震えている。

 その瞬間、父が叫んでいる顔が思い浮かび、視界とともに頭がぐらりと揺れた。

「ごめんね。こんな話をして」
 涼花さんは慌てて首から手を離し、私の肩を支えた。
「大丈夫です。……続きを話してください」
 小さく頷いて涼花さんは椅子に座り目を伏せた。

「覚悟を決めたのに。お義母さんが急に目を覚ましたの。私をじっと見つめて『お母さん、私、怖い夢を見たの。夢の中で怖いことをしちゃった』ってそう言って抱きついてきた。『お母さん、お母さん』『怖いからそばにいてね』と何度も、何度も言っていたわ。私を見ているのに、目はどこを見ているかわからない感じだった。
一体何が起こったんだろう? って、どうすればいいの、なんなのよって、首を絞めようとしていた手の力が……抜けていったわ。
……仁史さんの葬儀でも泣かなくて、可愛げがないとか言われたのにね。涙が止まらないまま反射的に、お義母さんを抱きしめてた。さっきまで首を絞めていたのに。『お母さんがいるから、大丈夫』って言っていた。そう口に出してから気がついたの。私もとっくに鬼になってるって。仁史さんもいなくなって、子供も失って、お義母さんを、殺そうとして、人の気持ちをなくしてしまったのよ」

 自分のしてきたことを確認しているかのように、ポツリとポツリと話を続けた。

「認知症が進行していて、私の事を自分の母親だと勘違いしたのね。お義母さんが、私の子供になるなんて思ってもみなかった。
 今まで一緒に過ごしてきたお義母さんはどこへいってしまったんだろう。
もしかしたら、仁史さんと、お腹にいた子が、私が過ちを犯さないように止めてくれたのかもしれなって。そんな風に都合良く思うことで、どうにか一線をこえなかった、こえられなかったの。
 そうしたら、それまであった戸惑いも、行き場のない怒りも、自己嫌悪もみんな、どこかへ消えちゃった。……いいえ、消えたんじゃないわ。心の奥にしまい込んだのよ。その日を境に、できるだけお義母さんが家にいられるように、良い家族であるように、頑張ってきたの」

 そう言い終わると涼花さんはいつものように微笑んでみせた。だけど、その笑顔には涼花さんの傷や脆さがにじんでいる。どこか寂しそうな涼花さんの姿は、自分よりも小さく感じられた。私は黙ったまま涼花さんを見つめることしかできなかった。

 仁史さんが亡くなってから一年。その頃には、妙さんが毎日のように遊びに来てくれるようになっていた。
 和さんも記憶は曖昧なままだったが、大きな問題もなく日々が過ぎた。妙さんから家のことは気にしないでいいから、たまには気晴らししてきなと言われ、涼花さんは久しぶりに遠出をすることにした。
以前から気になっていた遺族会の集まりに参加し、そこで私の父、正臣と涼花さんは出会った。

「扉の前で、一人ぽつんと正臣さんが立っていたわ。中へ入りたいのに入れないような。この人も一人で抱えすぎているんじゃないかってね。少し前の私のように感じて
『張り詰め過ぎない方がいいですよ』
 そう言って仁史さんが私に声をかけてくれたように話しかけたの。正臣さん、最初は全然話してくれなくてね。でも少しずつ話をしてくれるようになって。
『中学の娘がいる。妻が死んでから自分と一緒に過ごす時間さえ、作ってこれなかった。お金のことでつらい思いはさせたくないと、仕事一筋でやってきた。その分、寂しい思いをさせているのかもしれない。本人は何も言わないから、本当の所は分からない』そう言ってすごく悔やんでいたわ。
 私には、仁史さんから受け継いだものが多くあった。家も土地も、自分のお店も持っていた。でも、たった一つ、仁史さんが望んだもの、跡継ぎはいなかった。
 だから、私の方から、正臣さんに結婚しませんかって、言ったの。そう、最初は打算に基づく契約だったの。私、仁史さんにもそうだったけれど、正臣さんにも厚かましい態度をとっていたわ」
 父はすごく驚いていたようだ。
 和さんや涼花さんのことを全部知った上で、父は、鮎沢家の婿養子になることを承諾した。ただしそれに父は条件をつけたらしい。

「その一つが、妻の早苗さんを忘れないままでいることを、許して欲しいってことだったの」
「その条件って……涼花さんを侮辱していると思います」
「そんなことないわよ。私だって、仁史さんのことを忘れたことなんてないもの。正臣さん、正直な人だなって思った」
 涼花さんはちょっと微笑んだ後、私を見つめた。
「それとね、何があっても鞠毛さんの味方でいて欲しいって言ってたわ。そのことが一番大事って」

 突然そんなことを言われて戸惑った。
 涼花さんの話を聞いて、気持ちが落ち着かないのに、父の言葉をうまく受け入れることが出来なかった。

「鞠毛さんと一緒に暮らすようになって、すごく緊張してた。ちゃんとした母親でいたい。でも、ちゃんとした母親ってどうしたらいいんだろう。そんな風に毎日思っていたわ。いろいろ、子育てについて調べたりしてね。
今も正直なところ、母親になれているのかわからない。正臣さんとはお互い打算的に結婚したけれど、私は鞠毛さんと出会って家族になれたことが嬉しかった。正臣さんとも、いろんな話をしたわ……。
そのおかげで気持ちが変化していった。お義母さんの記憶が戻ってほしいと思うようになったの。たとえそれが、私を憎む辛い記憶ばかりだとしても、仁史さんや私が、お義母さんの記憶の中にいたという事実を、忘れて欲しくなかった。今の家族を受け入れてくれないかもしれないけれど。お義母さんと、また、話しをしたかったの」

 和さんが倒れたときの、あの涼花さんの表情と言葉には、こんな意味があったんだ。
 私も、涼花さんがと出会えて嬉しかった。けど、なんて言っていいのかわからず黙ったままだった。

「ごめんね。私、本当に自分勝手よね。鞠毛さんの気持ちも考えずに全部話しちゃった。正臣さんも、今話したこと全部知ってるわ。結婚したときに、正臣さんからもらったこの本。この本のことも、正臣さんから聞いている。私と同じように苦しんで……」
 そこまで言って急に黙ってしまった。
 何を言っていいのか困っていると、涼花さんから「はい」と本を手渡された。
 本を手に取りページをパラパラとめくった。破けたページの後に、絵本の絵とは違ういたずら書きのようなイラストが描いてある。
 このイラストは誰が描いたのだろう。私の気持ちを察したように涼花さんが言う。
「それは早苗さんが描いたって、正臣さんが教えてくれたわ」
 母の描いた絵。
 父親と母親とその子供の顔。それを囲むような、植物のイラスト。この植物、マリーさんだ。
 母はこれをいつ描いたのだろう。自分が癌だと知る前なのか。それともその後だったのか。

 父なら知っているだろうか。一番聞きたかった言葉を口にした。

「涼花さん、教えて下さい。父は今どこにいて、何をしているんですか?」

 小さく息を吸い涼花さんが身体に力を入れるのを感じた。

「それは……。でも、必ず帰ってくるわ。それは確かよ」
 何を隠しているのか知らないけれど、私は父のことを待つし、何を聞いてもきっと大丈夫。そう思いたかった。

「分かりました。いろいろ話してくれてありがとうございます。あの、和さんが暴れたとき、篤人も一緒だったんです。涼花さんのこと人殺しだと思っているみたいで……。だから今日聞いた話を篤人に話してもいいですか? あ、全部じゃなくて。父は失踪じゃないこととか」

「いいわよ」

 涼花さんは笑っているような悲しんでいるようなわからない顔で頷いた。
 その顔をじっと見つめる。

 涼花さんのことを、苦労を知らない人だと思っていた。
 いつも綺麗で優しくて、完璧な「お母さん」だった。
 話してくれた内容に気持ちが対応できないけれど、涼花さんのことを好きな気持ちは消えないままだった。





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