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デザインスクール留学で見つけた「友人像」

こんにちは。現在Copenhagen Institute of Interaction Designという北欧のデザインスクールに留学している町田です。今回は、社会人になってからなんとなく頭の片隅にあった人間関係の問題、特にこの時代における「友人」や「親友」といった概念について、デザインスクールという小さなコミュニティを通して理解することができたので、それをシェアしたいと思います。

自分は別に人間関係に大きな問題を抱えていたわけではありませんが、大学卒業後、「心が通う一方で疎遠になりゆく旧友」と、「新たに出会う一方でどこか他人行儀な知り合い」の存在に違和感を覚えていたことは確かです。自分の場合、社会人になってからの人間関係のほとんどは会社の同僚や上司でしたが、結局最終的にはどこか線みたいなものを引いているように見えて、正直ほとんど誰も信頼できていませんでした。

今思えば、人間関係の「不確実さ」みたいなものに不安を覚えていたんだと思います。なので、どこまでちゃんと関わるべきか、どこまで頼っていいか、見失っていました。

若年層の孤立や孤独死といった問題が大きくなってきている昨今、今一度自分の中で、人間関係を見つめ直すことは重要だと自分は考えます。「拡張型家族」を提唱した石山アンジュさんも「個人が支え合う真のシェア社会に」という日経の記事の中で、人間関係の「信頼」の重要性を説いています。

もしかしたら当たり前のことを書いているかもしれませんが、そのあたりはご容赦ください。

27人の多国籍コミュニティと愉快な仲間たち

まず自分の置かれている環境の説明です。自分が所属しているデザインスクール、CIIDの詳細は以下の記事にまとめています。

所属している学生数は27名、12カ国の学生で構成されており、職業もバラバラでビジネスマン、デザイナー、アーティスト、エンジニアなど非常に多様性に富んでいます。サステイナビリティやマイノリティといった課題に興味を感じている学生が多く、いわゆる「意識も高く実力もある」人材が豊富に集まっているという点では、留学先として申し分ないと思います。

日常生活の他、CIIDではほとんどの授業で、3-4名の学生でプロジェクトを組成することが求められており、国籍も、言語も、文化も、職業も異なるメンバー間で合意を形成していくプロセスは非常に困難でありつつも、異なる人と協働する方法を考える機会に恵まれていました。だからこそ、人間関係について考察できたわけです。

後から少々ネガティブなことを書くので、最初に断っておきますが、自分は27名のメンバーが好きです。プロジェクトではなく、日常生活で他の学生から学ぶことは多いですし(例: インド人からインドカレーの作り方を学ぶ)、何より休日に気軽に旅行できる仲間がいる、ということは、少なくとも3年の社会人生活では、味わえなかったことです。

(普段のプロジェクトの様子: 時間的にも非常にタイトでチーム
全員が協働することが求められます)

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(休暇中にサーフィンを楽しむ学生: 普段ストレスが多いこともあって、休暇中はこんな風にはっちゃけることが多いです)

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それでも人間の卑しさが見えてしまう

それでもなんとなく日常生活を楽しく過ごす、という意味では好きであったメンバーも、少し冷静になってみると、人間の汚いところ、卑しさみたいなものが見えてしまうことがありました。これは先述した人間関係の「不確実さ」に他なりません。

いくつかの分類に分けて説明したいと思います。

1. デザイナーとして「見下しあう」関係

先述した通り、このデザインスクールには、デザイナーだけではなく、ビジネスマンやエンジニアのような、デザイナー経験がほとんどない学生もいます。ただあくまでデザインスクールなので、学生間のそれぞれの認知の仕方は、お互いのバックグラウンドを尊重するというよりも、どれだけ美しいものを描けるか、理にかなったデザインができているか等、デザイナーとしてどれだけ優秀かに依存してしまうことが多かったように思います。

そうなると、「あいつのスケッチは汚い」「あいつはコーディングができない」「あいつは考えているばかりでプロトタイプを作れない」「あいつのプロセスはビジネス寄りだ」のように、それぞれにレッテルが貼られていき、それを各々が思っているので、「見下しあう」関係が完成します。思っているだけの場合はまだいいのですが、これがチーミング(4名のプロジェクトメンバーを組成する際)に影響してくると、大人の仲間はずれのようなものに発展します。

これをしているのは一部の学生だけでしたが、少しデザインの理解が足りない学生が、元デザイナーの学生にチームを組もうと申し出た時に、あからさまに嫌な顔・返事をされるのは見るに耐えませんでした…。

2. 自分にとって「都合の良い」人とだけ接しようとする

こうした大人の仲間外れ現象は、日常生活にも波及していきます。簡潔に言えば自分にとって何らかのメリットがある人とだけ、コミュニケーションするようなことが発生していました。例えば、コーディングの学習会をお馴染みのメンバーだけでやって、何もスキル提供できない学生は省かれる、そしてその学生が得意な領域の授業の時だけ、同じチームに所属するよう求められるなど、キリがありませんが、単純な利害関係で人間関係を構築しようとしている学生も多くいました。

そうして彼・彼女らが興味を抱いている、問題を解決したいと考えている、マイノリティが発生していくとは知らずに…。

全ての人と同様に接していては自分が疲れてしまうので、一概に悪いこととは言えないのですが、どこまで利害関係で人間関係を構築すべきかは考えようがあると思います。

3. 本当に困っている人を助けない・見て見ぬふり

極めつけは、これです。学生の中に1人ADHD(多動性症候群)と診断された学生がいたのですが、その人は授業を理解するにも、プロジェクトを進めるにも、日常生活をするにも非常に困っていました。そんな彼に手を差し伸べる人は決まった人で、さらに言えばほとんどの人が彼とチームを組もうとしませんでした。そして彼は授業の度に、助けてくれる人がいない、チームを組める人がいないことに悩んでいました。SlackやWhatsappを経由して、助けを求めているにも関わらず、、、です。

面倒臭いという気持ちはわかりますが、この部分はCIIDで一番忌み嫌っていた部分であります。みんな普段は優しい顔をしているのに、いざという時になると見て見ぬふりをするのです。

先ほども書きましたが、デザイナーとしてマイノリティといった見えない課題に立ち向かいたいと思っている学生が、その人の存在を無視しているわけですから、これはもう一生マイノリティのような概念・課題は消えないだろうなと思ってしまいました。結局多くのデザイナーは、「自分にとって都合の良い・美しいと感じる」問題にだけ手を差し伸べるような、ファッションとしてデザインをしているに過ぎないのだと今は考えています。

1人の友人との出会い

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そんな中、この人間の卑しさを晴らしてくれる1人のインド人学生と出会いました。インド北部出身の27歳の青年は、デザイナー・エンジニアとしても非常に優秀で、いつもみんなから頼られるような人物です。

そして自分が入学以降、最も多くの時間を過ごした友人でもあります。毎日のように彼の家に行っては、デザインの話をしたり、映画の話をしたり、休暇中にはコスタリカ中を旅行していました。自分が今、フォトグラファーやビデオグラファーといった職業に興味を覚えているのも、彼による影響が非常に大きいです。

そんな彼から、人間関係について考察できることが多分にありました。考察したというよりも、彼のような人間と過ごしている時に自分が感じていることです。人間関係について少し迷走していた自分が、フッと楽になった瞬間でもありました。

以下、現在の人間関係の考え方について、書き連ねていきます。

インド人の彼から学んだ人間関係

■ 原則: まず人間の卑しさを肯定的に見る

どれだけ強く反抗しても、先述したような人間の卑しさみたいなものは消えないのだと学びました。それを否定的に見ると無駄に体力を使うだけなので、人間はそもそもそういうものだ、と理解する姿勢が必要です。

インド人の彼も卑しさの部分には気づいていたようですが、その存在を認めた上で、そうした人間とは深く関わらないようにしていました。もちろん完全に無視するのではなく、卑しさがあまり出ないパーティーや飲み会などソーシャルの場では、普通の友人として関わり、仕事のようなどうしても人間の深い部分が見える際には、積極的に関わることを避けるということです。もちろん何らかの助けを求められた場合も、それに応じます。

他人を否定的に見る必要は全くありませんが、人間全員と同様に接する必要はないのです。

■ 友人になる条件として、自分が好きなように過ごせるかどうかは重要

では、本当の友人とは何だという話ですが、一つ目の条件として、「自分が好きなように過ごしていても認めてくれるかどうか」は重要だと思います。それは仕事であり、趣味であり、時間の使い方でもありますが、自分が心地よいように過ごせないようでは、その人と一緒にいることは自分の負担にしかならないように思うのです。

これはインド人の彼の他、27人の学生と過ごす中で感じたことです。飲み会などで、友人間で何らかの会話が盛り上がっていても、自分が他の何かに集中したい時は、その好きなようにさせてもらえるかはとても重要だと思います。これは逆も然りです。

このような人は、意識で繋がってるようなものだと思います。

■ どんな状況にあっても自分を助けようとしてくれるか

当たり前のことですが、どんな状況にあっても自分が助けを求めている時に、救いの手を述べてくれる人は大切にすべきです。ただそうした人は非常に少なく、自分の場合はこの27人の中でインド人の彼しかいないように思えます。大半の人は自分優先で動くので、この観点から積極的に関わる人を絞り込める気がします。これは逆も然りで、自分がどんな状況にあっても、相手のことを助けられるかも重要です。

■ 「友人」以外の存在、「ただの知り合い」を認めることも重要

では友人だけで世界が成り立つのかというと、そんなことはなく、「友人」だけに頼ってしまうと、自分の世界が狭まることも確かで、自分の可能性を広げるためにも、友人以外の存在も肯定的に見る必要があると思います。

そうした人をインド人の彼は「ただの知り合い」と呼称します。そうした人とは、夕食を共にすることもあれば、一緒に仕事をすることもあります。ただ、このような人の間には、先述したような「不確実さ」が存在するので、何かを期待しすぎるのはダメです。

そして自分が「友人」だと思ってきた多くの人は、この分類に該当することも分かりました。だから人間に怒りを覚えたり、卑しさを感じることが多かったのです。自分には難しいですが、いわゆる人脈が豊富な人は、こうした分類みたいなものを無意識的に行えているのだと思います。

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この1年で様々な人間の側面を見てきた気がしますが、その甲斐あってほんの少しだけ懐が大きくなった気がします。今後も様々な人間関係に感謝しつつ、生きていきたいです。

町田

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