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Eyja Girl #04

 比奈と喜八郎は『The Bermuda Triangle』の話もしたかもしれない。誇張や牽強付会さをそのまま受け入れ、割り切れない世界への揺らぐ想いを互いの瞳に認め、信頼を深めたかもしれない。2人は互いを尊重し、老いた惑星の地層のような親しみを重ねてきた。比奈と喜八郎の惑星のコアは既に重金属を生成している。『The Bermuda Triangle』について語り合っていたら。チャールズ・ベルリッツの奇抜な最期は比奈の肝を冷やしただろうし、大西洋三角域の秘密は衰えた喜八郎の好奇心を賦活したかもしれない。

 比奈には兄がいる。比奈の歳の離れた兄は子供の頃から「月には木なんか生えないから、女神なんかいるわけないだろ」うと考えたし、そう口にしてきた。陽文は求められる能力が高く、求められる人間と自分を一致させることになんの躊躇いもなかった。というより社会はそのまま陽文で、本人はそれを意識したことすらなかった。陽文は成功の全ては自分の努力の賜物だと信じて疑わなかったし、常に幸せの絶頂だった。思春期やそれに準ずる期間の、男に特有のホルモン量の急激な増幅にも心をかき乱されることはなく、その勢いに任せ、対抗する男達を非難されないやり方で蹴落としてきた。個に対して理不尽に要求し、全体に対して道徳的に振る舞った。示威と判別できない彼の活躍は、近くの人間の阿諛追従と遠くの人間の羨望を得てきた。陽文は社会に求められていない能力において真に凡庸でつまらない人間だと、比奈はそう思っていた。バンコクに赴任中の歳の離れた兄は、今年のクリスマスと正月を日本で過ごすという。だから比奈は今コペンハーゲン空港で孤独なトランジットを耐え忍んでいる。売店で買ったFlying Tiger Copenhagenのミネラルウォーターのラベルには鮫と思しき鋭利な魚がプリントされていて、そいつは比奈によって進行方向とは逆にくるくると回されている。おそらく前方には実にさまざまな海洋生物がいて、比奈は鯱の睨みを効かせている。

 久しぶりに家族が揃うのに、と母は言った。比奈はどうしても喜八郎に会いに行きたかった。「来年は受験で大変だから」、なんとか許可を得た。4時間弱のトランジットを経て、アイスランド行きの便は定刻通り発つらしい。「何がヒュッゲよ」と独り言ち、ボーディングブリッジで外気の冷たさを身体に叩き込みながら窓側の席に着く。バサバサと大きな外套を全部の座席にぶつけながらやってきた女性がそのまま隣に座り、しわがれた声でAfsakið(すみません)と言う。タッパーを差し出し、食用色素が青く光るクッキーパイを比奈に勧める。バターの良い匂いがしたが食べる気にはならなかった。ひとつ取って、わからないようにティッシュにくるんだ。Takk。あと少しだ。ケプラヴィーク国際空港には喜八郎が迎えにきてくれているはず。不安から解放された比奈は瞼の奥に熱を抱えたまま眠りについた。ありがとうおじいちゃん。

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