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Eyja Girl #03

 「Hina-Hanaia-i-ka-Malama」の先頭の「ヒナ」は比奈の名前の由来で、ポリネシアでも最も古い神話に出てくる女神。その子は半神半人のマウイで、放埒な性格ながら現在でも愛されている。比奈が物心つく前から祖父喜八郎は繰り返しこの物語を語り聞かせてきた。兎が餅をついている、よりも先にまるい月には女神ヒナがカパ布を打っている姿が見えていたし、特に暗い部分はカパ布の材料となるバニヤンの木が生えていると聞いていた。一度ホノルルで見たバニヤンの木からは地面に向けて無数の「樹根」が垂れ下がっていて、それは噴出される煙のようでもあり、たしかに月へ向かって離陸している只中に見えた。神と月と樹木の時間の感覚と人のそれはあまりにも違いすぎて、わたしたちには止まっているようにしか見えないのかもしれないね、と喜八郎は言った。自分以外の時間感覚に初めて想いを馳せて、真剣な目をきらきらさせている比奈を心底可愛いと、何がなんでも守りたいと思った。女神ヒナは暴力的な人間の夫から逃れるため、夜中に虹の橋を渡って月に向かった。喜八郎は虹の橋を必死に支える自身の姿を想像したが、次の瞬間には夜中に忍び込み、比奈に暴力を振るう人間をハンマーで叩き殺していた。ヒナ-ハナイア-イ-カ-マラマ、月で働く比奈。わたしが守れなくなったら、いつでも月に逃げる準備をしていておくれ。

 比奈は14歳になり、もちろん月に木が生えていないことを知っている。でも事実としての月の様子と女神ヒナのカパ布打ちの姿は何も矛盾せず比奈の中に同居している。月の衛星写真を見たからといって、喜八郎が語っていた物語が嘘だということにはならない。「神様がいない」と言い切ることの難しさを知っている比奈は、生活にいまひとつ馴染むことができなかった。家族も学校も駄目だとなると、比奈には本しかなかった。本には喜八郎がいて、自分を支えてくれているような気がした。アイスランドで研究員として働く喜八郎には年に一度、冬休みしか会うことができなかったが、よく連絡を取り合って本の話をした。本にまつわる全ての知識の話をした。世界を記述することや、言葉自体の話もした。

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