実話怪談 #55 「鼻歌」
これは三十代前半の男性、阿部さんの談である。
夕食後の話だという。
阿部さんは二階建ての戸建て住宅に住んでいる。リビングのソファに寝転んでテレビを観ていると、ビールを飲んだせいもあって、すぐにうたた寝をしてしまった。しかし、うたた寝といってもうっすら意識はあった。バラエティ番組のガヤガヤとした音声が、意識の遠いところで聞こえている。
その音声に混じって、キッチンのほうから鼻歌が聞こえていた。奥さんの奈々さんがよく歌っている鼻歌だ。全体的な雰囲気は童謡の『赤とんぼ』に似ているが、メロディが異なっているため別の曲だ。曲名を尋ねようと思いつつも、タイミングが合わずに訊きそびれている。
だが、今日こそは曲名を尋ねてみようと思った。
阿部さんは目を開けると、ソファの上でのそのそと身体を起こした。視線の先にキッチンが見える。そこに奈々さんの後ろ姿がある。
阿部さんは奈々さんの背中に向かって尋ねた。
「なあ、そのよく歌ってる鼻歌、なんて名前の曲なん? 『赤とんぼ』に似てるけど童謡?」
すると、鼻歌はぴたりと止んだのだが、奈々さんからの返事はなかった。こちらに背を向けたまま突っ立っている。
もしかして聞こえなかったのだろうか。もう一度尋ねようとしたとき、リビングのドアがすうっと開いた。反射的にドアのほうに目をやると、奈々さんがリビングに入ってくるところだった。
「え……」
阿部さんは思わず声を漏らして、キッチンのほうに目を戻した。さっきまでそこにいた奈々さんの後ろ姿が見あたらない。
もう一度ドアのほうに目を向けると、
「どうしたん? 驚いた顔をして」
奈々さんが不思議そうにしつつ、こちらに向かって歩いてきた。呆然とする阿部さんの隣に座る。
「いや、今、そこに奈々がいて……」
「そこって?」
「キッチンに……」
奈々さんはキッチンを一瞥して、また阿部さんに視線を戻した。
「もしかして、寝ぼけてる?」
聞けば、奈々さんは今までトイレに立っていたらしい。阿部さんは奈々さんの後ろ姿をキッチンに見たが、奈々さんの言うとおりで寝ぼけていたのだろうか。うたた寝していたのだからそれもあり得ることだ。
だが、そう考えている一方で、嫌な感じもしていた。
奈々さんがよく歌っているあの鼻歌――『赤とんぼ』に似ているあの曲。
阿部さんは奈々さんに尋ねた。
「なあ、この歌知ってる?」
それから鼻歌を再現してみせた。何度も聞いたメロディなのでしっかり覚えている。
「なにその曲? 知らんけど」
やっぱりだと阿部さんは思った。
鼻歌はメロディを覚えるほど何度も聞いた。さっきのようにうたた寝をしているときにも聞いたし、風呂に入っているときに廊下から聞こえてきたりもした。リビングにいるときに、玄関のほうから聞こえることもあった。
だが、奈々さんが歌っているところを、今までに一度も見たことがないのだ。さきほど後ろ姿を見たが、それがはじめてだった。
それに、改めて思いだしてみると、鼻歌とはいえ声が少し違う。
実際の奈々さんの声は、鼻歌の声よりも少し高い。
なにより、阿部さんが鼻歌を再現してみせても、奈々さんはそれを知らないと言った。奈々さんが歌っていたのであれば、知らないはずがない。
そんなことがあってからしばらく経っているが、今でも阿部さんはときどき鼻歌を聞くそうだ。
どことなく『赤とんぼ』に似ているあの曲――。
もしかしたら、この家にはなにかいるのかもしれない。
奈々さんにそう伝えるべきかどうか、阿部さんはずっと悩んでいるという。
(了)
他にも実話怪談を公開しています。
まえがき的なページに、他の怪談話へのリンクをまとめています。
まえがき的なページはこちら。
この記事が参加している募集
サポートしていただけたら、祝盃をあげようと思います。と言いたいところですが、僕はお酒が飲めません。大好きな梨を大人買いしようと思います。ちなみに僕は梨を皮ごと食べます。柿も皮ごと食べます。