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これまでの日々(4年間の大雑把なまとめ)

 私は、この4年の重みを乗り越えなければならないのだ。自分自身に降りかかった苦しみは、思考を塞いで、更にはそれを抗う思考さえも封じてしまう。

 起立性調節障害、それも重症らしい。それを知ったのは2017年初頭。中学1年の終わりの頃であった。いろんな経緯があったろうが、なってしまったものは仕方ない。学校にはほぼいけなくなり、塞ぎ込む日々が続く。それまで朝から毎日学校に行くことが日常であり普通であり当たり前であった私には、それが何より苦しくて仕方なかった。でもこれは始まりにすぎなかった。

 2017年終わりになると、自律神経の問題だけではなく、精神的な不調が表立って出てきた。まず物忘れがひどくなった。約束した時間に行けない。不安と焦りで思考が奪われ、なんとかyoutubeやゲームなどに没頭して辛さを誤魔化す。そんな日々とは裏腹に、学校には15時あたり(つまり終わる寸前)には行ける日が出てきた。遅刻して学校に行く時に感じる周りからの視線は、その段階で関係ないものと吹っ切れたのだ。

 2018年の終わりから2019年初頭は、高校受験に悩まされた。そのせいか、1ヶ月ほど学校に行けなくなった時もある。僕にとって高校というのは新たなスタート地点と思っていた節がある。だからこそ過去の頑張れていた自分と今の絶望的な自分に後悔し、受験勉強など一切できず苦しむ自分に、エナジードリンクとコーヒーを無理やり入れて喝を入れた。もちろんそうしたって状況は好転しなかったけれどね。無駄に思考だけは働くせいで、その頃は「生きる意味というのは元々無くて、でも人間は社会的な行動に意味を求めるから苦しくなる。その解決策として、人間は意味を作り出すことができる。」という論を展開していたことを思い出す。

 苦しみから生まれる暇により、思考が働いてさらなる苦しみを呼び覚ます。

 結局僕は、行きたかった高校に行けず、通信制高校を選択した。中学が少し厳しい学校であったことと、高校はそれに比べだいぶ緩かったので、精神的な余裕が少し生まれた。ここでは記載しないが、私は写真と自転車競技を趣味でやっている(最近陸上を始めた)。少しだけ趣味に没頭できる時間が生まれた。でも登校日はことごとく休みや遅刻を繰り返した。生活習慣にテコ入れするため病院を変えた。それでもうまくいかない。

 2021年8月現在の私は、ある結論に至った。生活習慣や自律神経の不調を治そうとする前にやるべきことがあるのではないか。それは精神の不調をなんとかすることだ。

 今の状況をうまく説明できるか分からないが、とりあえず書き記しておく。昼前に起きることがほとんどで、一日中眠い。毎日不安と焦りの連続で、どこからともなく孤独感が襲ってくる。過去への執着は消えたのに、今度は未来への憂鬱が溜まってゆく。コーヒーが相棒で手放せない。高校3年で進路を決める時期なのに、なんの選択も取れていない。現実感のない日々、季節を感じることができない。思考は狭められ、記憶に残らない。また「幸せ、楽しい、嬉しい」という感情は薄れ、「苦しい、辛い」という感情がメインになる。

 冒頭に書いた思考の状況は、行動を起こすことすら躊躇わせる。生活(行動)が思考に影響を及ぼしているのではなく、思考が生活(行動)に影響を及ぼしているのではと考察を立てる。今までは生活習慣を見てくれる病院に通っていたが、この考察をもとにすると精神的なところを見てくれる病院に行くことが必要だ。幸いなことにカウンセリングをずっと受けているところなので、状況はわかってくれている。病院に精神的な治療を望むことをしっかりと話し切った。ここ数ヶ月で少しだけ決断力が復活したように思う。

 私は根性論が好きではない。しかしながらここ数日は気合いで朝から陸上の練習をするために起きたり、この文章を根性で書いている。これくらいのことしか私の根性ってヤツは使えないし、このまま体がぶっ壊れるかも知れないが、今はやってみるしかない。 

 最後に、この投稿を読んでくれた方の中にこう思っている人がいるだろう。
「結構動けてるし、症状も軽いのではないか」
しかし私は全くの逆のことを感じている。確かに精神的苦痛のレベルは最骨頂ではないだろう。しかし瞬間的苦痛と慢性的苦痛を繰り返している日々だ。そしてここでは出来たことだけを記載している。出来なかったことは書ききれない。やはり文章を書くのは難しいと再認識した。それではまた。

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