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おいちゃんが亡くなった時、自分のいやらしさに直面した


先々週、大叔父が亡くなった。


自己満足でしかないとしても、ここに想いを書き出す事で心を整理したい。


子供がいない大叔父夫婦のために、ここ数年、ヘルパーさんと僕の親が交代で二人のお世話をしていた。大叔父が亡くなる数日前、母から「おいちゃんの調子が良くありません。」とLINEが来た時、「ああ、そろそろなのか」とは思ったが、こんなにも早くその時が来るとは思わなかった。せめて最後に一度、顔を見せられるかと思っていたが、ついにその時が来ることはなくなってしまった。

大叔父夫妻は、近くに住んでいた僕と僕の兄弟を孫のように可愛がってくれた。僕たち兄弟が地元を離れてからは、頻度はめっきり減って盆と正月にしか会わなくなったが、それでも昔と変わらず会う日を楽しみにしていてくれた。見た目はすっかりおじいちゃんだったが、博学で知的好奇心旺盛な大叔父はいつまでも若々しくて、そのせいか僕は子供の頃と変わらず「おいちゃん」と呼んでいた。

大叔父には金銭的にもかなり援助してもらった。何度頼っても悪い顔一つせず応援してくれた。おいちゃんがいなければ、大学も留学も行けていなかっただろう。誇張なしに今の僕があるのはおいちゃんのおかげだと思う。


おいちゃんの訃報を受けた時、悲しみと同時に(むしろ、より強く)罪悪感が押し寄せてきた。「ちょっと待ってくれ、まだ何も恩返しできてない。これからどんどんする予定だったのに…」

もうどうすることもできない。もう取り返しがはつかない。海外に出て3年目になるが、初めて自分が日本にいない事を後悔した。両親は淡々と葬式の準備を進めているようだった。僕が今から日本に急いで帰っても、自主隔離期間で休暇を消費し切ってしまう。海外に住む僕にできることは何もなかった。

でも、何もできないとしたら、この気持ちをどうしよう。この悲しみに罪悪感が重なった、何とも言えない感情をどう処理すべきか。運よく、僕の話を真摯になって聞いてくれる人はいるだろうが、果たして人にこの気持ちを話すことで少しは気が済むだろうか。おそらく、おいちゃんに直接言わないと無意味な気がする。悲しいことにそれも手遅れなのだけど。


忘れられない思い出がいくつかある。


僕が幼稚園生くらいの頃、親に頼んでおいちゃんの家に泊まらせてもらった。

昼間、おいちゃんは僕を畑に連れて行ってくれた。多分茄子の収穫だったと思うけど、そこでどんな畑仕事を手伝ったかはあまり記憶に残っていない。

でも、真夏の炎天下、見上げるほど背の高いとうもろこしに囲まれた細いあぜ道を歩いたこと、よく熟れたトマトの瑞々しい赤色、小川に掛かる頼りない橋の上で水面を見下ろした時のどきどき(実は3mくらいしかなかった)を鮮明に覚えている。

その晩、確か、おいちゃんの寝室にもう一枚布団を敷いてもらって寝ようとしたが、不意に床の間の欄間に掛けてあった般若の面を思い出し、頭から離れなくなった。一度考えてしまうと最後、どうしても怖くて眠れなくなってしまった。そして結局は、わざわざ親に迎えに来てもらい、自分の家でようやく眠りについたのだった。


いつだっか、おいちゃんに靴を買ってもらった。

どこで買ってもらったかは覚えていないが、後にも先にもそれ以来出会った事のない謎の生地で作られた、真っ黒の無地の靴(ゴムっぽい生地でダイビングソックスのような感じ)で、なぜか僕はそれを心底気に入って、無理を言って買ってもらった。今思い返すと、我ながら我儘な子供だなぁと呆れたものである。

ある日、おいちゃんの家の近くの橋(上に述べた橋だ)の上から小川を眺めている時、その靴を川に落としてしまった。その当時、僕はなかなかに落ち着きのない子供で、靴をつっかけてぷらぷらさせる癖があったから完全に僕が悪い。今でも、お気に入りの靴が水面に向かって落下していくほんの一瞬がスローモーションに見えた事を思い出せる。ひゅーーーぽちゃん。

多分、僕は泣きながらおいちゃんの家に戻り、助けを求めたのだと思う。おいちゃんは長い竹の棒を持ってきて、一所懸命に橋の上から靴を救出しようとしてくれた。川底に沈んでいた靴が、棒の先に引っかかって何とか持ち上がった時は大変に安堵した。

その日だったか、後日だったか、近所の人がシャコをお裾分けしてくれて、おいちゃんの家で茹でて食べたのだが、当たり前のようにその川で獲れたのだと思い込んでいた(当然、シャコは海にしかいない)。そこからしばらく、この川にはシャコがいる!と思っていた。川から靴が水揚げされた瞬間が余程脳裏に焼きついていたのだろう。


おいちゃんが若い頃は写真が趣味だったらしく、かつては何台もカメラを持っていたらしいが、年を取ってからはめっきり撮らなくなり、年代物のNIKONのフィルムカメラ1台を残して他は全て売ってしまったとのことだった。さすがに、僕にそのカメラは触らせてくれなかったが、その代わり操作の簡単なフィルムカメラでよく写真を撮った。写真屋で現像してもらったものを受け取りに行くわくわく感は忘れがたい。

僕は幼い頃、絵を書くことが大好きだった。暇さえあれば大きな画用紙に水彩絵の具を使って風景を描いた。おいちゃんは僕に「ガバン」を買ってくれた(漢字で書けば「画板」だが、当時の僕には「ガバン」)。工作が大好きだった僕に「工作100選」という本を買ってくれた。その中から作れそうな物を選んでは、毎週末のように創作に励んだ。幼い僕がノコギリや金槌を使うのを見守り、毎週のように一緒にホームセンターに資材調達に連れて行ってくれた親には心から感謝だ。


僕が中学生になる頃には、戦時中や終戦後においちゃんが目撃した様々なこと、世界で起きた歴史的出来事を、昨日のことかのように鮮明に、けらけらと笑いながら語ってくれた。僕が興味を持って聞くものだから、気分が良かったのだろう。おいちゃん夫婦はこの頃から、なぜか僕のことを「しぇんしぇ(先生)」と呼んだ。

おいちゃんは九州の片田舎には珍しい文化的好奇心と教養を携えた人だった。最低でも僕の目にはそう映った。本棚には沢山の小説や画集があり、おいちゃんの家に行くたびにそれをパラパラめくるのが楽しかった。家には数点の絵画と、おばちゃんの書いた書(おばちゃんは書道の師範だ)が掛けてあった。僕にとって、おいちゃん夫婦の家は文化に溢れた異空間だった。


僕が大学に受かった時、入学金と学費を少し援助して欲しいと頼みに行った。おいちゃん夫婦は子供がいなかったことと、かつての手厚い年金制度の恩恵でそれなりに金銭的余裕があるのは確かだったようだが、それにしても羽振りが良かった。僕がフランスに留学したいと言った時も「俺はフランスっちゅー国が好いちょる。特別な品があるやろ。帰ったらいっぱい話して聞かせえ。」と快く応援してくれた。

僕が盆に帰る度に「新幹線代にせえ」とお小遣いをくれたし、正月には一番多くお年玉をくれた。


そんなことが続くうちに、僕はおいちゃんに金銭的に期待するようになっていた。貧乏学生だったとは言え、総額にするとかなりのものだったし、若干の後ろめたさが無かったと言えば嘘になる。

そして、その後ろめたさはもらった額が云々というより、そのお金を有効活用できているかどうか、些か疑わしかったことに起因する。

おいちゃんは、僕がどんな学生(人間)だと想像していたのかは分からない。ただ、自分で言うのはどうかと思うが、僕はいわゆる模範的な学生ではなかっだろう。大学の成績は大して良くないし、好きなことしかしてなかったし、旅行にばっかりお金と時間を費やしたし、アホみたいに飲み歩いていたし、その結果2年間の休学期間をフルに活用したし。

おいちゃんは、僕が早く社会に出て、一人前に自分の稼ぎで食えるようになって欲しいと思っていたのは、節々から感じていたにもかかわらずだ。

正直なところ、留学だってどれだけ意味があったかは分からない。確かに、様々な貴重な体験を経て、見える世界は広がった。でもそれは後付けの正当化でしかない気もする。そんなことを言い出せば、そもそも大学生活自体どれだけの価値があったか。その価値を確信する日がいつか来るのだろうか。

いやいや、どうしよもなく楽しくて、最高にプライスレスな日々ではあったけど。


結果的にそれなりの就職をすることはできたが、大した大人にならないまま、それまでの放蕩具合を隠すように、見てくれだけ整えながら、30歳手前まで生きてきたと言われても何の反論もない。そんな自分の人生にがっかりすることもたまにあるが、どうすれば自分を納得させることができるだろうか。その答えはまだ見つからなそうだ。

おいちゃんなら、それでもなんとかやってるだけ立派だと言ってくれるかもしれない。

まあ、「あとは嫁さんをもらって家庭を持つことやな」と言うだろう。それに僕は反論するだろう。するとおいちゃんは、かーと笑いながら「さすがしぇんしぇの言うことは違う!」と言うかも知れない。そうゆう会話も楽しかった。



大学4年生の頃、おいちゃんが1台だけ残していたNIKONのカメラを僕にくれた。

僕は驚いたし、なんとなく悲しくもなった。

当初はビンテージカメラのアナログ感とフィルムの写りが気に入って、何度か海外旅行に持って行った。だけど、あまりに重く、使い勝手が悪いので、結局実家の棚にしまってしまった(当時NIKONのデジタル一眼レフを持っていたし、年代物のフィルムカメラは本当に重い!)。



結果的においちゃんの形見になってしまって、数年ぶりにそのカメラの存在を思い出した不束者の僕ですが、おいちゃんがくれたそのカメラを、一度良くメンテナンスして、また使ってみたいと思う。

ずしりと重いおいちゃんのカメラを、また手に持った時、僕は一体何を思うのだろうか。何を思えばいいのだろうか。

もう一生、おいちゃんが僕にしてくれた事への恩返しはできないとしても。


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