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出来事に対する意味づけは自分で決めている

子どもが運動会に出れなかったことにより気づきがあったので久々にnoteを書きました。

今日は子どもの人生初の運動会でした。何か月も前から練習を重ねていて、連絡帳にもいつも運動会の練習をしていると書かれていて、家でも音楽に合わせてよく踊っていたので、親としては当日をとても楽しみにしていました。

そんな中、先週、息子が体調を壊し、発熱しました。いやな予感が的中し、5日後、娘も発熱しました。

もともと、娘は喘息持ちで体調を壊すと長く、発熱しても39度台から何日も下がらないということがしょっちゅうです。

昨日は37度後半まで下がっていたので、もしかしたらこのまま回復するかも?と期待するも、結局当日の朝は39度で、娘はぐったり。

運動会欠席の連絡を入れながら、私は残念な気持ちでいっぱいでした。

でも当の本人は運動会に出られなかったことを残念と思っている様子は全くありません。

そもそも間もなく3歳になろうというところ、また、人生の初の運動会なので、運動会が何たるものか知りません。

加えて、毎日音楽に合わせて友達と踊ったこと、かけっこの練習を繰り返したことを心から楽しんでいて、運動会当日参加できなかったことなど、気にしていないのだと思っています。

この出来事を通して、運動会当日でれなかったのはかわいそう、悲しいと思うのは、そう意味づけているからであって、必ずしもかわいそう、悲しいことであると思うことはないのだと気づきました。

親がかわいそうだと想うこと・言うことで、初めて自分はかわいそうなんだと気づいてしまうのかなぁと思っています。

なので、親としても初めての運動会を来年に延期しただけ、楽しみを先延ばしにしたのだと思うことにしました。

出来事に対する意味づけは自分でしているのだと痛感しました。大人も一緒ですよね。何かが起きた時に、それを嫌だと決めるのは自分なのです。

子育てから学ぶことは本当に多いです!

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