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森喜朗氏の女性差別発言が何故問題なのか。

 こんにちは。

 本日は、少し前に大問題となった森喜朗氏の「わきまえない女性」発言を取り扱っていきます。

・何故森氏はあのような発言を?

  本題に入る前に、まず森氏が辞任する事になった発言を要約する

・女性は競争意識が激しい。それ故に1人が発言しようとすれば全員が発言しようと動くので、時間が掛かって困る。

・しかし、文科省がうるさく言うから(しぶしぶ)女性を会議に参加させている。

・女性の組織での役員数を増やす為には、役員の発言の時間の制限が必要だ。

・組織委員会の女性はきちんと的を得て発言している。

 ずいぶんととんでもないことを言った、と思われるが(後述)、何故こんな事を言ってしまうのかを考察していきたい。それは、思うに、森氏の育った当時の日本社会の影響があると思う。

 森氏は1937年生まれであり、彼の若かった頃の日本を考える。森氏が育った戦後あたりは、「男は外で働き家族を養い、女は結婚するまで働いて、寿退社で家庭に入る。」だとか、「女は育っている時は親、結婚したら夫、先立たれたら息子に従う」など、ジェンダーに従う事と男尊女卑が(今よりも)当たり前の時代だった。産業構造の変化や、人権の意識が向上し(無論人権意識についてはまだ向上の余地が大いにあるが)、それが教えられてきた私たちのような若い世代はこういう考えが誤りだと捉えられるが、それが無かったから、そういう考えの変化に着いて行けてないのではなかろうか。

 また、森氏の世代は男女問わずジェンダーに縛られていた時代(男性は上記に加え、いつでも前に出て、常に強くあるべき、感情を出すな、女性より上でないといけない、等。女性は上記の他、前に出るべきでない、男性を支えるべき、等)で育ってきたからこそ、端的に発言してきた、或いはさせられてきた、だからわきまえている、と思う分、突然前に出て来られて長く発言されて立場の人々にイライラしている、とも考えられる。

 年を召して、やりがいのある立場を、まさか仕事につかないであろう人に取って代わられると不安だし、発言が多少たたかれてもまさか辞任にはならないし、きっとみんな忖度し(=わきまえ)て、自分の立場を脅かす人が減ってくれれば、自分が望む通りの五輪を行え、さらに委員会をけん引したという名誉を手に入れられるだろう。それで辞めさせられても、私のせいではないしそうやって切り捨てる無慈悲な社会が悪いんだ。

 こんな事を考えて言ってしまったのではなかろうか。だが、彼が社会のせいにしたところで、彼の発言は、人権や、さらに(政治家だったのにも関わらず)民主主義の理念にも背きかねないのは変わりない。

・民主主義の理念に違反

 まず、「女性は次から次へと発現するので、役員数を増やす為には発言の時間の制限が要る」という発言は、政治の仕事についていられる森氏が言ってしまうと、言論の自由に制限を置くべきだ、という点で、民主主義的に行われる五輪の理念上問題となる。

 なぜなら、民主主義的な五輪の運営を取るからには、どの派閥の意見も反映しながら決定が求められる、という民主主義的な過程のもと行われる必要があるからだ。

 「与党等の多数賛成により議案が可決されました」のように、確かに効率の問題上、多数決が最終手段として取られているが、それでもある政策を決定する事で生じるメリットもあれば、デメリットもある。「ある人には薬となりある人には毒となる」というように、長所短所は人それぞれだから、不利益を最大限抑えつつ、利益を出す決定がされなくてはならない。そのためにはいろんな立場の人から意見を聞く必要がある。

 今政治など重要な意思決定の場でただでさえメスが少ないのに(性の多様性を尊重したいので女性男性という社会的な2分割ニュアンスを使うのは避けている)、「女性役員数を増やして時間制限」となれば、幅広い意見が反映されなくなり、また、忖度させてしまって、重要な議案を決める委員会という場が、一部の団体のための利害の調整の場になりかねない。

 効率が良いからだとか、或いはその内容が完璧に良ければいい、という意見もあるかも知れないが、効率をどうするかはそうした理念が崩れない範囲でされるべきだし(私は委員会にそういう理念が反映されていないように思えた)、後者に至ってはどの議案も一長一短であり、だからこそ調子が必要である。

 森氏はそういう理念に立ち返る必要があるように考えられる。

・影響力のある人物が特定の集団への発言することによる影響

 さらにいえるのは、森氏が、「女性は競争意識が激しい」だとか、「女性はわきまえろ」、「女性は本来参意思決定の場に参加するべきでないが、仕方なく参加させてやっている」と発言したことは、女性への生き方の意識的・無意識的な生き方の選択、或いは社会的な立ち位置において抑圧を助長しかねない。そうした発言のせいで、忖度して意見を言わなくなったり、或いはそういう発言を聞いて育てば(たとえそれが自分を指していなくても)言わないのが当然だと無自覚的に身についてしまう。影響力のある人物がそんなことを言うと、それを本気にする人が多数出てしまう。

 そうすると、長年抑圧され通ってこなかったメスの意見が、少しだけ日本社会の意思決定の場に吸い上げられて来つつあった流れが、鈍ったり無くなって、再び反映されない、という事も普通に起きてしまう。反映されないことで不利益を被るような意思決定が行われ、メスへの差別がさらに進んでしまう。

 それは時と状況では、法律上の女性への職業選択の自由や人権を踏みにじる決定になったり、今存在するそうした状況を悪化させるかもしれない。

 民主主義を取っている以上、特定の性別の発言の封じ込めは、それが例え両者の合意があっても、許されるものではない。

 森氏の辞任は社会の反発だけでなく、そういう理念を無視した故に招いてしまった、避けられないものであると考えられる。

 森氏はあの後も問題になりうる失言をされているが、何故失言が問題なのかは書いた通りであり、只森氏を批判するので終わるのではなく(誹謗中傷などはもってのほか)、彼に丁寧に理解を促して、失言をなくすのが、世論の役割だと考える。

・参考文献

・株式会社スポーツニッポン新聞社.Sponichi Annex. "森喜朗会長の3日の"女性蔑視"発言全文". [更新2021-02-04] https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/02/04/kiji/20210204s00048000348000c.html [参照2021-05-07]

・文部省 著, 西田亮介 編. 民主主義 <一九四八 - 五三> 中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版. 幻冬舎新書. 2016.

・片田珠美. 男尊女卑という病. 幻冬舎新書. 2015.


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