祖父と日本酒
私の地元には酒造が多く、「加茂鶴」「竹鶴」「亀齢」など、長寿にあやかれそうな名前の日本酒が至るところで売られている。けれどそんなお酒を愛飲していた祖父はむしろそれゆえに短命で、私が10歳になる年に肝臓がんで亡くなった。
21年前の9月1日、小学校の始業式の後に、担任から祖父の危篤を知らされた。私は夏休み明けで浮ついた生徒たちの間を駆け抜けて下駄箱へ走り、迎えに来た母の車に飛び乗った。
病室に入るともう心臓マッサージが始まっていて、薄茶色の胸をさらして横たわる祖父の上に、白衣の男がのしかかっていた。
そういう場面では家族の声かけが生死を分けると聞いたことがあったので、私は医者のじゃまにならない程度の距離まで近寄って「おじいちゃん!」と呼んでみた。すると骨張った腕がびくっと痙攣した。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
心臓マッサージの振動とは無関係に、右手だけがベッドからわずかに浮きあがり、指の関節が何かを掴もうとするように動いていた。
今にも息を吹き返しそうな気配をはっきりと感じた。もう少し、もう少しだ、と思った。にも関わらず、医者はとつぜん処置を止めて「ご臨終です」と告げたのだった。
あまりにもあっけなくて、これで終わりだなんて信じられなかった。
でも、だって、まだ温かいのに。と思いながら祖父の手を握っていたら、じきに冷えて固くなった。
祖父は広島県の呉市で生まれた。魚屋の2階で育ち、15歳から働きに出て、20代で戦争へ行った。
終戦後に造船の仕事で沖縄に滞在していたとき、那覇市の洋裁店で働いていた祖母と出会った。広島に連れ帰って結婚し、翌々年に父が生まれた。
家族が増えたのを機に東洋工業(現在のマツダ)に入社。広島市内に住居を移し、20年ほど職工として働いたが、あるとき事故に遭って足を傷め、現場を離れて事務職になった。「事務仕事はつまらん。冴えん」とよく嘆いていたそうだ。それでも定年までは勤めた。
週末はよく祖父母の家に預けられた。おやつどきになると祖父が「まなみちゃん、イオン行こうや」と誘ってくれる。普段行くスーパーとは違い、お菓子の品揃えが豊富なうえに本屋やゲームコーナーも併設されていたので、毎回とてもわくわくしていた。祖母とそこへ行った記憶はない。ふたりは孫と過ごすときの役割を完全に分けていて、散歩と買い物は祖父の領分だった。
祖父はいつも「好きなもん買うて来んさい」と言って500円玉をくれ、店内の休憩所でワンカップの日本酒を飲みながら待っていた。
小学生にとって500円は大金だ。ハーゲンダッツもカントリーマアムの大袋も買える。でも私はおやつ代は100円までと決めて、余ったお金でコミックを買うことにしていた。実家では漫画禁止だったので、こういう機会に入手して祖父母の家に置いてもらうしかない。『らんま1/2』『こどものおもちゃ』『花より男子』。古本屋でも買えるものばかりだが、気に入ったシリーズはぴかぴかの新品で揃えたくて1巻ずつ買い集め、宝物のように大切に読んでいた。
レジから休憩所へ戻るとき、ご近所のおじいさんやおばあさんと談笑する祖父の姿が遠くからでもすぐ目についた。腰の曲がった老人たちの中で、抜きんでて長身で姿勢が良い。「うちのおじいちゃんがいちばんカッコいい。イギリス人みたい」とよく思っていた。駆け寄っていくと、祖父は満面の笑みで「なに買うたんね?」と聞いてくれた。
「暑かったじゃろ! まぁまぁ、こんなに汗かいてから」
帰宅すると祖母が飛んできて私をさらい、祖父は黙って自室へ行く。食卓には里芋の煮っころがしや魚の照り焼きが並んでいる。味噌汁は白味噌で、やたら具が多い。祖母の話し相手をしながら差し向かいで夕食をとり、食後は祖母の部屋でテレビを見た。
私たちが居間を離れるのと入れ違いに祖父がやってきて、ひとりきりで食事をはじめる。そして一升瓶からとっくりにお酒を注ぎ、夏は冷酒、冬は熱燗をちびちびと飲む。祖父にご飯をよそったりお酌をしてあげたいと思うのに、夕食からお風呂までの時間は祖母の部屋にいなければならないので胸が痛んだ。
なぜふたりが仲違いしていたのかは知らない。
その頃はとにかく双方とバランス良く接し、孫としての可愛げを均等に振りまくことだけに気を配っていた。でも、心の中では圧倒的に祖父のほうが好きだった。祖母は私といるときに祖父の悪口を言ったが、祖父は祖母の悪口を言わなかったから。
「あの人は酒飲みじゃけぇいけん。まなみちゃんは将来、あんなんになっちゃだめよ」
祖母はしきりにそうに言った。ふすまの向こうで晩酌をしている祖父に、わざと聞こえるような声で言った。私は祖母の部屋のテレビの音を大きくして対抗した。酒飲みの何がいけないんだろう。祖父は酔っても騒いだり暴れたりしないし、高い飲み屋さんで無駄遣いするわけでもない。とっくり1本の日本酒くらい、気持ちよく飲ませてあげればいいのに。
ひとしきり祖母と過ごしたら、風呂上りに祖父の部屋を訪ね、少しだけお喋りしておやすみなさいを言った。長居すると祖母の機嫌を損ねるので、名残惜しくても切り上げないといけない。寝るときは私用の布団がぽつんと敷いてある客間で、買ったばかりの漫画を熟読してから眠った。
祖父の体調が目に見えて悪化しはじめると、私もだんだんお酒を嫌うようになった。「病気のもとは酒だ」と父も母も言っていた。甘い匂いがするのになめてみると苦味があり、祖母を怒らせ、祖父を弱らせる透明な液体。
入退院を繰り返すようになっても、祖父は飲酒をやめられなかった。病院ではもちろん飲めないから、自宅療養の期間にだけ祖母の目をぬすんで台所へ行き、ガラスのコップに直接注いで自室に持って入っていた。そのうちベッドから起き上がる体力もなくなり、最後のほうは私に頼むようになった。
「少しだけ、コップに1杯だけでいいけぇ」
祖父の願いを叶えてあげたい。でもこれをそのまま飲ませたら、もっと具合が悪くなるかもしれない。
そう思ってコップの半分まで日本酒を入れ、上から水道水を注いだ。そして箸でよくかき混ぜてから、何食わぬ顔で枕元に運んだ。祖父は「うまいのぉ。ありがとう、ありがとう」と言って、本当に美味しそうに飲んだ。そんなことが幾度もあった。
気づいていなかったわけがない、と気づいたのは、自分がお酒を飲むようになった後だ。祖父はただの一言も文句を言わなかったし、そんな素振りも見せなかったけれど。
祖父の七回忌で、祖母が急に「あの人、洒落た人じゃったねぇ」と懐かしがりはじめたのには驚いた。
「初めて会ったとき、『シャツを作ってくれ』って、うちの店に来たんよ。ほら、背が高いじゃろ? 既製品がなかなか合わんかったらしいんよね。特注なんて珍しいけぇうちも張り切って、ふつうの白いのじゃつまらんと思って、薄いピンクのシャツを縫ってあげたんよ。そしたら『こんなにぴったりくる服は初めてじゃ。ありがとう、ありがとう』ってえらい喜んで、それからしょっちゅう、用事もないのに通ってくるようになって。いい人じゃった…………。もっと、優しゅうしてあげたら良かったねぇ」
祖母がお酒を飲んでいる姿を見たのは、そのときが最初で最後だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?