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テイカカズラと藤原定家の話13

6月22日 快晴

本日のBGM Star Number One De Dakar


前回の新勅撰和歌集が完成した2か月後に、嵯峨山荘に飾る和歌として、百人一首は色紙に染筆されます。ちなみにこの時 定家が色紙に書いた百人一首は、小倉色紙と呼ばれ、中世で茶室の飾りとして大流行します。100枚しかないから すんごいお宝になっていたみたいですね。当然ニセモノもいっぱい出回ったそうですが。

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さて百人一首は王朝の歴史絵巻と言われているように、第1首目は天智天皇から始まり、99首目と100首目には、新勅撰和歌集に入れることのできなかった後鳥羽上皇と順徳天皇の歌が入っています。


天智天皇は中大兄皇子という名前の方が教科書的には有名で、大化の改新によって豪族の時代から天皇中心の政治に変わった時の天皇です。

一方、後鳥羽上皇おやこは それを終わらせた方ですから、百人一首は天皇中心であった時代の 始まりから終わりまでの悲喜こもごもを100首で表そうとしたものなんでしょうね。

「聴けば懐かしのあの時が蘇る。。藤原定家プレゼンツ!さよなら平安王朝、600年から選りすぐり!大伴家持、小野小町、西行法師、青春を駆け抜けた憧れの歌手たちの 忘れられない珠玉の名曲100選!」みたいなものでしょうか。


新古今和歌集が2,000首近く、新勅撰和歌集が1,400首近くですので、600年近くの歴史の中から100首を取り出すというのはめちゃくちゃ厳選されたものでして、つまり この100首は完全に 定家の選定意図が入り込んでいます。

どんなものでも選ぶという行為には編集者の意図が入り込むもので、逆にいうと編集者の意図が入っていないものって ちょっとつまんないんですよね。

例えばですけど売り上げが年間一位の曲だけを集めたコンピレーションアルバムみたいなもんで、一番いい曲だけ集めても一番いいアルバムが出来上がるわけではなくて、どの曲とどの曲を組み合わせるかで、アルバムの個性は大きく変わります。


同じように百人一首も、時代を代表する歌人たちのオールタイムベストな一首ばかりを選んでいるわけではなくて、それぞれの組み合わせによって、定家の意図したなんらかが表現されるように選ばれているはずです。


定家は和歌を作る際でも、感覚優先ではなくて、論理的な組み立てで歌を作っていて、それで周りから難解だと非難されてたわけですから、百人一首も それぞれの歌には「なぜその歌なのか」の理由がはっきりあると思います。

つまり百人一首の個別の歌は歴代の歌人の作品で、その寄せ集めには違いないのですが、百首の「組み合わせ」は紛れもなく定家の作品であり、それこそが百人一首の魅力なんですね。

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百人一首は新勅撰和歌集と同時期に撰定されてたようで、妥協せざるを得なかった新勅撰和歌集に対する反感が、より定家の思想を純化させるエネルギーを産んだのかもしれません。

あるいは公共事業である新勅撰和歌集を妥協して仕上げるためには、私生活の方で自分のやりたいものを思い切りやることでしか 自己のバランスが取れなかったのかもしれませんね。


百首の中には王族だけではなく武家も入っていて、93首目には定家が通信教育で和歌を教えてた鎌倉幕府3代将軍の源実朝の歌が収録されています。

そしてテイカカズラの元ネタとなった式子内親王の歌も89首目に入っていて、定家自身の歌は93首目です。そして全体としては風を詠んだ歌が多いですね。


ただ私は前も申しました通り、個別の歌は知りませんので、今回は後鳥羽上皇と定家の歌だけ取り上げてみます。

なぜこの歌なのか、編集者の定家からすれば ぜひ想像して欲しいでしょうね。


後鳥羽上皇

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は


雑な意訳

人を愛しく思う 恨めしくも思う 世の中はつまらないと思う って思う



藤原定家

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ


雑な意訳

もう会うことのない人を いつまでも待ち焦がれてる




和歌の話 もう少しだけ続きます


おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目


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