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62. 父親のこと/ sobre mi padre(3)

僕も思春期というものがありました。


記憶する限り、高校・大学とほとんど父と出かけたり、

プライベートな会話は激減しました。


お年頃ですから、こればかりは仕方ないですよね。



会社を継がせようとしていた息子を、

「大学には入れてやるが、卒業したら板金屋になって会社を継げ。」

と、言われたのは、大学入学前のことです。


僕もそれをまっとうするつもりでいましたが、

卒業間近にパラグアイでの就職を決めてしまったわけです。




親父の趣味と言ったら、

ギターやカラオケ、映画(アクションやヤクザ系)、ドライブ、旅行でした。


父が中学生の時は、バスケットボールをやっていて、

一応キャプテンだったそうです。


ちなみに身長は168cmの僕よりも低いです。


父とバスケをしたことは一度もありません。



僕が中学になるまでは、

欲しいものはある程度買ってもらったし、やりたいこともさせてもらったように記憶しています。


毎週末のように、新潟市のイトーヨーカ堂に行くのが家族の恒例でした。


父も母も、家にずっといる人ではなかったので、

週末ともなれば、必ずのように出かけていました。


今でも、二人は週末になれば必ずのように出かけているようです。

新潟県内だけでなく、近県の長野や山形などによく行っているようです。

この歳になってもなんとか仲良くやってくれていることは嬉しい限りです。


出かけることが多かったので、

父とスポーツをして遊んだという記憶はほぼないです。

よく親子で野球のキャッチボールなんでいう風景がありますが、

それは我が家にはなかったですね。


幸い、僕は近所の友人たちに恵まれたこともあって、

よく友人たちと遊んでいたのがよかったように思います。


でも、今思うと毎週末のように出かけていたことが、

今の僕のベースにもつながっていると思います。

じっとしていられない病です。笑


それなんで、日本を飛び出して、パラグアイまで来てしまったのかもしれませんね。



小さい頃は、いろんな遊びをしました。


火遊びとか大人がいたら叱られるような悪戯もよくしていました。。


イタズラは重要だと思います。

あのスリルは病みつきになってしまいますよね。



遊びの中でも印象深いのが、

親父の会社の道具や設備を使って、秘密基地遊びのようなことをしていました。

ハシゴや脚立を立てて、そこに足場板を欠けて、ロープを貼ったり、

会社の壁にチョークで落書きをしたり。


その落書きは今でも残っています。。恥ずかしい。。


おっと、親父の話から逸れて、僕の話になってしまいましたね。



親父の教育方針は、いいな、と思っています。


「超奔放主義」だと思います。


子供のやりたいようにさせる。

特に口出しはしない。

子を信じて、任せる。


もしかしたら、あまり教育には興味がなかったのかもしれないですし、

そんな余裕もなかったのかもしれません。


仕事のことで頭がいっぱいになるのは、当然だと思います。

僕もその気持ちはよくわかります。

その血を継いだのかもしれませんね。


中学、高校、大学と、

親父の会社で夏休みなどの長期休みにバイトをすることもよくありました。


小遣い稼ぎにはとてもよかったですね。

そこで職人の世界を垣間見ることもできました。

その時の経験は今でも大きく役立っています。


バイトはすごく重要だと思います。


僕がパラグアイに来て、独立してから親父に言った言葉です。


「俺が跡を継がないで、海外で独立したのも、ある意味で親父の血を引いたんだと思うよ。」


そう思って喜んでもらえたらいいんだけどなあ。


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