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言いたいと伝えたいは違う


私がこう言った。お前ら私がこう言ったんだから分かれよ(言いたい)

私はあなたにこれを受け取って欲しい。だからあなたが受け取ってもらえるように私は努力するよ。(伝えたい)

これはまるで違うことである。

キャッチボールでも思いきっり投げるだけで相手の胸元に投げることを意識していなければ、ただ投げただけ。
大谷翔平のど真ん中直球の美しいスピードボールをキャッチボール始めたばかりの人間に投げても、ただ投げただけになる。
相手がキャッチできるように場合によっては遅く投げたり高く投げたりする。

どちらが楽しくてどちらが心地よいか。

明白である。
キャッチボールが楽しい。

ただし、意地を張った相手にこれは伝えにくい。ボールを受け取ろうとしていない相手にこれは伝えにくい。
右手にタバコ、靴はサンダル、腰パンでジーンズ。そんなやつにボールは投げにくい。

受け手がグローブをはめていても取る気がない状態。
はめてるだけ。
そんな状態でも、教育者は親はそんな状態の相手にビタビタの送球をしなければならないのである。

難しい、、、。

グローブをはめていても後ろを見ている相手にどう自分の球を取らせるか。
「向けオラ!」で通じればいいが通じない。通じたところで楽しくならない。楽しくないキャッチボールになる。
相手が興味を引くようなことをする。

勉強が嫌いだけど鬼滅の刃が好きな子どもに

「この前美術館行ったんよ.。。。まじ面白かった。美術館の中に鬼滅の刃の全てが詰まってた。」
まずこちらを向かせる。

「鬼滅の刃に出てくるあの時代。大変な時代だったんだなぁ」
グローブをこちら側に向かせる。

「炭治郎のこの場面のこのセリフ。まさに大正デモクラシーだよね。」
捕球姿勢を取らせる。

コミュニケーションは相手が今どう言う状態にあるかを理解した上で、どうやって振り向かせるか、どうやって取らせるか、どうやって投げるか、考えなければならない。
相手の世界の言葉を理解して使わなければならない。

「君何が好きなの?」

「野球です。」

「例えばな、鬼滅の刃はな、、、」

綺麗な言葉で話しても、美しい日本語を並べられても、上手い話も、面白い話も、状況や相手次第ではまるで効果がない。
40人学級を初めて持った時の難しさはそこにあった。

「誰に向けて授業して、誰に向けてコミュニケーションしたらいいのか?」

野球好きなやつもサッカー好きなやつも絵が好きなやつもいるのに、、、

授業作りに苦しむ若手教員の私に、
主幹教諭が言った。
1時間の授業を40人にするんじゃなくて、1時間の授業の中で、一人一人が活躍できる場面を意図的に作ってやる。たしかに暇で退屈な時間もあるけど、必ずどこかのタイミングで一人一人とコミュニケーションしてやればいい。

画期的だった。それを学んだ私は優れた実践を勉強してそれを子どもたちにやるスタイルからそこにシフトチェンジ。

なぜYouTubeが面白いのか。
自分の興味関心にビタビタに当てはまる視聴者だけが客だから。
なぜ教科書が面白くないのか。
不特定多数を対象に作られているから。

その上で教師ができること
その面白くない言葉をいかに子供たちの世界の言葉を使ってコミュニケーションできるか。
私の前にいるのは誰なのか。
ベストではないがベターな授業。
そんなことを思い出した1日でした。


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