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瘤取り爺さんの隣家の爺さんと腰折雀の婆さんの隣家の婆さんに学ぶ、恋愛の教訓

 私は、生まれてこの方、物心ついてから、盛大な勘違いをしていたようだ。

 恋とはなんだろうか。それは昨今の恋愛市場を眺めていると、もはや「無形商材」なのではないか。
 いや、実のところそれは、今に始まったことではなく、文明社会が発展し、資本主義経済が現時点での「最適解」とされる社会の中では、「恋愛」というカテゴリーのシステム設計の中に、「無形商材」という項目が、あらかじめレンジスライダー(初期値0)として組み込まれており、各々の価値観次第では、その数値は増加していくようになっているのではないか。そして、資本主義社会に従順であればあるほど、(それは、必ずしもアンチ資本主義が「従順でない」ことの証左にはならず、むしろそのことが却って、従順であることの理由になる場合もあるかもしれない。そこに相関関係はない)その数値は高い値を示す傾向にあるかもしれない。

 話を拡げすぎた。いま私は社会を論じるほど「資本主義社会と恋愛」における歴史に精通してもいなければ、熟考した末の個人的な見解というわけでもない。

 ただふと、先日の出来事を通して、それから1週間が過ぎ、考えるでもなく考えている間にふと、もしやと、この考えが浮かんできたのだ。

 とりあえず言えることは、私に関しては、これに該当する、ということだ。
 万人のシステム設計には、「恋愛に、無形商材というレンジスライダーを組み込む」という、そんな指示書は存在せず、私にだけ、なにかの間違いで、そんな致命的欠陥ともいえる設計ミスが施されてしまったのかもしれない。

 何故それが致命的欠陥なのか。

 私は、常に女性を意識して生きている。それはなにも、色欲の話ではない。こうも言い換えられる。女性を認識するときの、最初の最初の認識が、「人間」なのではなく、「女性」なのだ。(もっと詳しく説明すると、認識の開始点が「人間」なのではなく、「女性→人間」というプロセスを経るのだ)
 男性に関していえば、自分が男性なので、同性に対する関心の薄さも相俟って、女性ほど「男性」と認識してから「人間」と認識するまでにさほど距離がない。(だからといって「男性」と相対するときは、今回お話する「恋愛」とは別種のフィルターを通している感覚はある。それはそれで問題(?)なのだが、今回の論点とずれるのでこれはまたいずれ)

 本来「恋」というものの始まりはなんなのだろうか。それは突然に「落ちる」ものなのだとしたら、私は違うことになる。
「積極的・能動的に落ちたい」と思っている。これは昔話でいうところの、瘤取り爺さんの隣家の爺さんであり、腰折雀の婆さんの隣家の婆さんと同じ状態である。
 それはつまりどういうことか。「恋に落ちた」人の話を聞くにつけ、羨ましいなあ、と安直に「私もそのようにしよう」と同じシチュエーションを画策、模倣し、演出しようとするが、それは「下心」があってのことであり、たとえ状況的には同じような条件が揃っていたとしても、そこには肝心要の「真心」というものがないので、結果的に非道い目に遭う。

 そして話を戻すと、私は世に聞く「恋に落ちる」という経験をした人たちと同じハッピーを手に入れたい・手に入れようと思って実行に移すが、それは本来世に聞く、自然な「恋に落ちる」ではもはやなく、人工的な「恋に落ちる」であり、昔話に倣うなら、これは上手くいくはずがない。

 にも拘わらず、 私は常に、「なんとなくええなあ」と思うた女性の前では、「先々で、一緒になるかもしれないパートナー候補」として相手を見、見ることによって衒いや格好つけや、女性への気遣いが始まる。
 また、そんな存在がひょっとすると、どこに存在しているのかは、まったくわからないので、「ええなあ」と思う女性と出くわす可能性が少しでもあるすべての機会において、好意的に見られるように、「異性」として女性を認識し、目を光らせて(いないような素振りを見せつつギラギラ眼と涎で)、始終、24時間365日、女性を意識して生きてきた。

 それを先日、読書会の面々の「綺麗・可愛い」よりどりみどりの方たちと日帰り旅行をした折、私はそこでも肩肘張って、彼女らを「意識」していた。それから1週間悶々と考えを巡らせるうちに、今回のことが自分の中で露見することとなった。

 これははっきり言って、失礼なことだと今なら思う。ブックマーク、ドッグイヤー、マーキングと何が違うのか。

 そうして私自身、自然体でいたいはずなのに、衒いが邪魔してリラックスできていない。肩が凝る。楽しいはずのイベントも、なにかムリが生じている。こんなのは結果的に、私が望んでいることではない。

 冒頭で資本主義云々などという説法をくどくどと説いたが、私は単に、「恋に落ちる」画策をしていただけなのだ。

 明日から心を入れ替える、と、そんな電気のスイッチをON/OFFするみたいな簡単なことではなく、もはや生来この価値観で生きてきていたので、ふかーく染み付いてしまっているものを、そう簡単に落とせるものではない。

 だが、そうした衒いや格好つけは、もういらないんじゃないか、逆に人生楽しめてないやんけ、ということに気付くというメリットを得られたので、徐々に鎧を脱いでいくことはできそうな予感はある。

 それから先日、このようなことを漠然と考えたあとのこと。
 これまた素敵な方たちが集う会があったのだが、この日は特段服飾のおしゃれも、振る舞いのおしゃれもせず臨めた。ラクだった。心の底から楽しかった。こんなことは久々かもしれない。帰宅後の一人反省会もやらなかった。
 私が欲しいのはこっちのほうだったんだろう。みんな(男女関係なく)大好きです。また会いましょう。

 もちろん「恋に落ちたい」。
 だけどそれは、画策するものではなく、いつか落ちるときは落ちるし、落ちないときは落ちないんだろう。それでいい気がする。また一つ鎧が脱げた。やったーー

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