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【小説】月へと続く道

 調弦したG線の上に弓を乗せ、ゆったりと滑らせる。
 弦の振動が艶やかな木の空洞で花開き、人の声にも似た豊かな響きを生む。
 奏でるのは穏やかなエチュード。愁いを帯びたバイオリンの声が、パーゴラを覆う白い花弁を優しく震わせる。
「またここにいたのね」
 花のような白いワンピースの君が現れ、僕は弓を宙に泳がせる。
「お茶の時間にしましょう」
 スカートをひるがえす君の上、薄蒼く霞む空に、細い細い三日月。

 ガラスのティーポットを満たす、萌黄色のハーブティー。
 白く曇った氷砂糖のように沈んでいる、中心に蒼い炎を宿した結晶。
「月の道は見付けられた?」
 僕のカップに熱い液体を注ぎながら、君はさり気なく問い掛ける。
 横に振る僕の首は強張って、プラスチックの人形のようにぎこぎこと鳴る。
「音楽は月との距離を縮めるというから続けると良いわ。大丈夫、あなたにもきっともうすぐ月への道が開かれる」
 君の微笑が僕を圧迫し、レリーフの彫られたカップを口に運ばせる。月光の結晶を溶かしたハーブティーはほのかに苦く、僕の唇を焼いた。

 君が最初に月への道に足を踏み入れたのは七歳の時だったと言っていたね。
 圧倒的で蠱惑こわく的な満月が君の前に現れて、月に支配される快感に導かれるままに、空へ続く透明な道を歩いたんだって。
 それからずっと、君は月に至るはずの道を行きつ戻りつしている。
 いつか月まで辿り着ける日を夢見て。
 誰もがそうして月に焦がれている。
 僕は月へと続く道を一度も見たことがない。
 本当は、見たいとも思っていない。
 僕が知っている月は、惰性で回転しながら太陽の光を反射する虚しい岩石。
 そんなことを口にしたら、君はひどく憤慨して、傷付いて、泣いてしまうだろう。
 だから言わない。
 言えない。
 僕も早くその道を歩いてみたい。
 君と同じ夢に浸って、この偽りと裏切りを溶かしてしまいたい。

 また庭に出て、エチュードを弾く。
 叶うなら刺すようなアレグロで月に叫んでやりたいけれど、弦を押さえる指がもう動かない。
 調べは硬くひび割れて、かつてのように僕を満たしてはくれない。
 君が毎日れてくれる、月光入りのハーブティー。
 僕を月へと導くためのその液体が、次第に僕をむしばんでいる。
 君の思いやりを拒絶することなんて僕にはできない。
 蝕まれる僕が、月に焦がれない僕が悪いのだから。

 とうとう弓を持てなくなった。
 耳もろくに聞こえなくて、風が吹き荒れるようなごうごうという音に引きちぎられた君の声の断片が時折耳の奥に届く。
 君は心配してくれている。
 そして今日も差し出されるハーブティー。
 僕はカップに目もくれず、ポットに指を突っ込んで、取り出した結晶を口に入れた。
 熱湯の中でも冷たい結晶。ごりりと噛むと無臭の衝撃が広がって、耳も目も訳に立たなくなった。

 桃色がかった巨大な満月が紺碧の空に浮いている。
 ガラスのように透明な道が、地上の砂漠から月へ向かって無数に伸びている。
 それぞれの道に、一人ずつ上って行く人がいる。
 ある人は一歩ずつ慎重に、ある人は喜びに喚きながら軽やかに。
 道から人が降る。月まで辿り着けずに。
 そしてまた上り始める。
 僕の前には、道は無い。
 僕と月の間は、絶対的な虚空で隔てられている。
 ふと足元を見た。
 淡い光を放つ石が、砂に半分埋まっている。
 すくい上げると細かな砂がさらさらと指の間を滑り落ちる。
 すべすべとした温かな石。手の平で転がすと、ころん、と中から澄んだ音がした。

 不安そうな君の顔が僕を覗き込んでいる。
「良かった、目が覚めたのね」
 ほっとした様子の君は、今度は期待を眼差しに込める。
「月へは行けた?」
 僕は君の目を見返す。ちゃんと見える。君の声がありのまま聞こえる。
「地上にも月はあるよ」
 怪訝そうに首を傾げる君に微笑みかけ、僕はお茶会の席を後にする。
 再び奏でるために。

(了)

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