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「ゲーテ」考 06

(承前)

ここまでゲーテの足跡を
駆け足で追ってみまたが、
いかがだったであろうか。

最後に、ゲーテと、
とある恋人との文通が作り上げた
一連の作品について語り、
この話を終えたいと思う。

晩年のゲーテは『ファウスト』を執筆しつつ、
若き日の回顧録である『詩と真実』
(”Aus meinem Leben. Dichtung und Wahrheit”)や
1786年のイタリア旅行を回想した『イタリア紀行』
(”Italienische Reise”)などを世に出したが、
そうした中、徐々に彼は
オリエンタリズムへの憧れを
抱くようになっていた。

特に1814年、
中世イスラムの詩人ハーフェズ
(”Ḥāfeẓ” Šams-al-Din Moḥammad 1326?-1390?)
の詩集がドイツ語訳として出版されると、
一気にその傾向は強まっていく。

ゲーテがフランクフルトの銀行家の養女、
マリアンネ・ユングと知りあったのも、
この頃の時期と重なる。

二人の仲は急速に深まり、
ゲーテとマリアンネは、
お互いを「ハーテム」「ズライカ」と呼び、
オリエント風の詩を作っては
手紙を交わし合った。

しかし、
ゲーテとマリアンネの恋は成就せず、
彼女は養父でもあった銀行家の
3番目の夫人に収まることになる。

2015年の9月、
ハイデルベルクでの短い逢瀬が、
ゲーテとマリアンネ
二人にとっての最後となった。

1815年9月23日、
ハイデルベルクに向かう馬車の中で、
マリアンヌ・フォン・ヴィレマーは
愛しい人に会える喜びを
「東風」に託した詩を書き記し、
その3日後の9月26日、
フランクフルトに戻る馬車の中で、
恋人との別離の思いを
「西風」に託した詩を書き記す。

これらの詩は
後日、全てゲーテの手に
届けられたらしい。

ゲーテは、
彼女との詩のやりとりを
「ズライカの書」としてまとめ、
マリアンヌの書いた東風・西風の詩は
そのまま『西東詩集』
(”West-östlicher Divan”)という
詩集のタイトルとなって、
1819年に発表されることになる。

「すみれ」(”Das Veilchen”)や
「野ばら」(”Heidenröslein”)に代表される
ゲーテ初期の作品も、
ゲーテの恋愛の体験を元に作られたもの。

しかし、
その視点はあくまで
ゲーテからの視点のみの
一方的なものであった。

だが、
この「ズライカの書」では、
単なる男女の恋愛の域を超え、
対話を通じて
お互いの精神を高め合っていこうとする
二人の強い意志を感じさせる。


様々な女性との遍歴を重ね、
その経験を自らの作品に
反映させてきたゲーテだが、
その恋愛観の成長の証が
この「ズライカの書」に見ることができる。

そして、
最晩年に完成した
『ファウスト』第二部。

そこに描き出されている
「愛する人による魂の救済」こそが、
彼の理想の到達点ではなかったであろうか。

(了)

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