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「江文也」考

『生蕃四歌曲集』という連作歌曲がある。

江文也という台湾出身の作曲家が
昭和11年(1936年)に発表した作品である。

「生蕃」とは
高砂族などに代表される
台湾土着の民を指す言葉。

昭和9年(1934年)に行った
故郷台湾での演奏旅行の際、
彼の弟の江文光と共に
台湾各地に残る民謡を採譜し、
それらを元に自身のイメージを重ねて
作曲された作品だと云われている。

バリトン歌手でもあった江文也は、
この作品を自身でも気に入っており、
旅先などでも度々演奏していたようだ。

原始的かつ強烈な色彩感覚と、
それに留まらない
細やかな抒情性が魅力の曲である。

※ ※ ※ ※ ※

昭和モダニズムの時代に
歌手として、
また作曲家として
活躍した江文也は、
同時に
時代に翻弄された
悲運の音楽家であった。

彼は日本統治時代の台湾に生まれ、
父は貿易商を営む
中国系の台湾人だった。

「植民地出身」という
決して軽くないハンデを負いながらも
彼は日本でバリトン歌手として成功し、
更に作曲家としても成功する。

昭和11年に行われた
ベルリン・オリンピックでは、
芸術競技・音楽種目で参加。

山田耕筰、諸井三郎、箕作秋吉ら
名だたる日本人作曲家の作品が
いずれも選外となる中、
彼の作品『台湾の舞曲』は
見事入選を果たし、
江文也の名は
ヨーロッパでも知られるようになる。

欧州での楽譜の出版、
また昭和12年のパリ万博で
彼の作曲した『生蕃四歌曲』が演奏され、
ニューヨークでも
公演で彼の作品が演奏されるなど、
江文也は、確かに当時の
「日本の代表的な音楽家」のひとりであった。

・・・にも関わらず、
今日、日本で彼の名を聞くことも
彼の作品を演奏されることも
ほとんどない。

戦争と日本の敗戦が
全てを変えてしまったのだ。

※ ※ ※ ※ ※

敗戦国日本の
台湾放棄による日本国籍の喪失。

これにより江文也は
「日本の作曲家」ではなく
「中国の作曲家」とされ、
日本の楽壇から
彼の話題は消え去った。

戦後、復興した日本が
アポロや大阪万博で盛り上がり、
万博景気の中で
数多くの文化イベントや
音楽会が盛んに行われていた頃、
中国では
文化大革命の嵐が吹き荒れていた。

江文也は
「日本帝国主義の手先」
と見なされ、
教育・演奏・出版の
全ての権利を剥奪される。

彼の作曲した楽譜原稿などは
巻き添えを恐れた
近親者の手によって全て焼かれ、
彼自身も
「矯正」と称した地方での強制労働に
長い間従事させられた。

文革の嵐が過ぎ去った後、
彼の権利と名誉は回復されたが、
ここまでの辛苦の中で
躰を病んでしまった彼に
もはや筆を取る力はなかった。

そして1983年、
江文也は北京の片隅で
ひっそりと朽ちるように
その生涯を終える。


近年、台湾や中国では
江文也の再評価がなされ、
盛んに江文也の業績研究や
江文也関連のイベントが行われているが、
まだ日本では
さほど研究は進んでいない。

日本の近代音楽史だけでなく
「アジアにおける近代音楽史」
という視点においても、
江文也は
もっと知られて良い存在だと思う。

(初稿:2018.04.29)

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