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2008年の日記から 02

(音高・音大などの)
学校に通うことで
特に意識しなくても道を外さぬよう
自分を規制してくれていたもの、
それらは卒業と共に消滅する。

そこから先は
好き勝手をやれば、
好き勝手にやっただけの結果しか
手に入らなくなる。

やろうと思えばいくらでも
好き勝手はできるのだ。

ぶっちゃけた話、
客さえ沸かしてしまえば
「公演は成功だ」
「良い公演だった」
「有意義な公演だった」と
言い張る事も可能。

プッチーニやヴェルディなどの作品は、
作品の力そのものが大きいので、
ただ音をなぞってるだけの演奏でも、
曲の力だけで観客は喜んでくれたりする。

でも、それは演奏者本人の力ではない。
作品の力、作曲家の力が素晴らしいだけの事。

有名な作品であればあるほど、
観客の多くは
過去の大歌手による名演を
目の前の舞台に重ねて観ていたりする。
それだけで泣いたり喜んだり
フレーズを聴いただけで感動できたりするのが
有名曲であることの証しでもあるしね。

またクラシックの世界では
往々にして観客の側が年の功もあって
礼儀というものをわきまえており、
どんな演奏であっても、
それなりに盛り上げてくれたりもする。

(あるいは同じ音楽仲間同士で
 チケットを回し合ったりしているので
 お互いに暗黙の了解として
 誉め言葉しか言わなかったりする)

でも、これって、
落語でいうところの「寝床」では?

そんなもの、
ただの「旦那芸」とどう違うのか?

そんな演奏を続けていけば、
確実に演奏は荒れるし、
「演奏家として絶対に失ってはいけないもの」
すら見失ってしまうのでは?

仲間内で和気藹々と行う
「自主公演」というのは、
相当に気を引き締めて臨まないと
あっという間に道を踏み外してしまう
きわめてリスクの高い公演なのだ。

誰も口出しをしないということは、
全てを自分の判断と責任で
行っていかなければならないということ。

「本当に良い舞台を作りたい。」

「ただ単にオペラを
 一本やって満足するのではなく、
 演奏者としてのステップアップを
 図れる機会としたい。」

そう考えるならば、
自主公演に参加する時こそ、
今まで以上にレッスンに通い
道を外さぬ工夫をする必要があるだろう。

自主公演でやるからは
「物好きが集まってやってる」
などと間違っても言わせぬような
「芸」をするべきだろう。

・・・演奏家としての矜持があるならね。


私が先生から教わった事は、
しっかり自分の中で消化して、
本番の舞台に活かすつもりだ。

更には
教わったことを後進の者達にも
ちゃんと受け渡したいと思っている。

その受け渡しが
「伝統」というものだし、
その伝統こそが
「クラシック」
というものの本質ではないだろうか。

(写真は旧奏楽堂での舞台セッティング風景)

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